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 関東の、荒川より北は日本ではない。  誰でも知っていることだ。パシュトゥン人難民が大量に住み着いて、日本の法律も文化も気にせずに行動している。  無法地帯。  そういうイメージがある。  忘れていたわけではないが、体調が悪くてそれどころではなかった。何より、昼間の駅で襲われるなどとは思っていなかった。    頭痛とともに目覚めた。  同じ場所、待合室の粗末なベンチに横たわっていた。  誰かがそばにいる。さっきの奴ではない。匂いが違う。優しい柑橘系の匂いだ。ほっそりとした体形。ショートパンツに袖を引きちぎったようなTシャツ。肌は浅黒い。意思の強さを感じさせる、きりっとした青い目。  その顔には見覚えがあった。 「本郷、どうしてここに?」 「それ、私のセリフ」  中学の、同じクラスの女子。とくに接点はないが、学校で彼女を知らない者などいない。  学校で唯一のパシュトゥン人だからだ。 「ここ、私の地元だよ。誰でも知ってるパシュトゥンタウン。まともな日本人が来るところじゃない」  俺はそろそろと起き上がった。殴られた部分に触れると、柔らかい布の感触がある。治療の跡だ。  本郷六華はずっと少し離れた位置に立って、無表情に俺を見下ろしている。 心配しているようには見えない。ただ俺を見ているだけだ。 「たすけてくれたのか?」  そう尋ねるとあさってのほうを向き、何か、日本人がしないタイプのジェスチャーをした。 「そのことは話す必要ないし、話したくない。電車があるうちに帰ってほしいだけ。私もこれ以上時間をとられたくない。OK?」  駅の時計を見上げた。二時間近く意識がなかったらしい。 「立てる?」 「たぶんね」 「大事なものがなくなってないか確認して。財布の中身とか、スマホとか」 「ありがとう。大丈夫みたいだ」 「早く行って」  立ち上がった。駅の中の様子が、そのとき初めて目に入った。  スプレーでいたるところに落書きされた壁。ぼろぼろの自販機。ゴミだらけの床。いたるところに落ちている手巻きタバコの吸い殻と、甘く重い匂い。無人駅なのか、どこかに引っ込んでいるのか、駅員の姿はない。  かすかに吐き気がこみあげてきた。  危険地帯。  その認識に、もう一度頭を殴られたように感じた。  だが、なんでもない顔をして振り返った。 「ありがとう。また明日、学校で」  どうにか微笑んでそう言った。  特に意図があってしたことではない。自分の内面のしんどさを、人に気づかれたくない。それだけの理由でいい人ぶった演技をしている。いつものことだ。俺はそういう人間なのだ。  だが、本郷は不意打ちを受けたような顔をして、その後目をそらした。 「早く行って」  不愛想にそう言った。別に気にはならない。俺は本郷に興味があるわけではないからだ。  苦笑いをして、軽く手を振った。  もちろん、本郷はそれも無視した。  自動改札を通って振り返ると、いつのまにか本郷は消えていた。  初夏の気配のする夕暮れ時。  やがて、ライトを輝かせた電車が、滑るように近づいてきた。                
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