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 下でドアの開く音がした。  ああ、本郷が出てきたか、と思った直後、もう一度ドアが開いた。  さっきとは違う、重い金属的な音だ。  玄関の扉だ。  母か。  首を絞められたように息が止まった。  母にどういう説明をするか、そういう準備が何もできていなかった。  パニックの波が押し寄せてくる。  肺が意思を持ったもののように暴れだそうとする。  そんなわけにはいかない。ここで動けなかったら一生後悔する。  俺は目の前の壁に思い切り頭突きをした。  視界に火花が散るぐらいの衝撃と痛みで、パニックの波をやりすごした。  急がず、下の様子に耳をすませながら一歩ずつ階段を降りた。    母は叫びだしたりはしていない。  本郷の声も聞こえない。  二人とも、驚きすぎて反応できずにいるのか。  母の困惑は想像できた。  たぶん母の頭の中では、俺は四歳ぐらいの幼児のままだ。いや、具体的なイメージまではわからないが、いつか子供であることをやめて一人前の男になって、父親にだってなるかもしれない。母の思考はそういうところまで及んでいない。  だから、思春期の少年がよくやるようなことを、俺がやるとは全く想像していなかったのだ。  本郷は、子供のころに母を失っている。それ以上のことは知らないが、母という存在そのものに幻想を抱いている。  慈愛とやさしさに満ちた聖母のような姿を、母という言葉に重ねて見ている。  本郷がいなくなった家族の話をあまりしなかったが、そのころの思い出を語るとき、彼女の顔は五、六歳は幼く見える。  きらきらした、遠いあこがれを見上げる瞳。  あの顔を、今本郷は母に向けているのではないか。  そんなことを思いながら、俺は階段を降りた。  やがて見えてきたのは本郷の背中。  その向こうに、青白い顔をした母。  俺の姿が見えているはずなのに、反応しない。   「とりあえず、二人とも座って」  俺は静かにそう言い、ダイニングテーブルを指した。  父と妹が出て行って以来、ずっと空席だった二つの椅子。  そこに、本郷と母は腰をおろした。 「もう、落ち着いたか」  俺は本郷に尋ねた。 「説明、させて」  本郷は言い、俺は頷いた。    
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