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夢を見た。
腕のなかに飛び込んでくる妹の笑顔と、ミルクのような匂い。穏やかな父の声。そして、微笑んでいる母。
ストーリーなどない、記憶のフラッシュバックのようなものだったが、幸福の残り香のようなものは感じた。
だから目覚めた時、打ちのめされたような気分になった。
最初から無いものならかまわない。そういうものだと受け入れるだけだ。
だが、失ってしまったものならば。
なぜ、どうして失くしたか、気づいてしまったならば。
古びた絶望は、実は居心地の良いものだった。
新鮮な喪失感は、触れまいとしても指を切り裂いた。
自分の無意識が何を恐れて記憶を切り離していたか、ようやっとわかった。
「怒ったり泣いたり忙しいやつだ」
ひそめた声が、すぐそばで聞こえた。
ベッドが音をたててたわみ、そこに新たな体重が加わってきた。
本郷六華。
とっさに飛び起きようとした。額に本郷の指が触れて、簡単に押し戻された。
窓の隙間からさしこんでいた月明かりが陰った。本郷のシルエットが視界を覆う。
息のかかるような距離で、六華がささやく。
「あんたを傷つけているものが何なのか、私にはわからない。どうやって助ければいいのかもわからない。医者になれて助けられればいいけれど、その道ももうなくなってしまった。私はあんたみたいにはなれない。誰も助けられない。でも、それでも、そばにいてほしい。そばにいたい。そう思ってる」
六華がさらに近づく。
彼女の体温、彼女の髪の匂い、せっけんの匂い。
唇に触れる、柔らかな感触。
夢だったかもしれない。
そこから先のことは憶えていない。
夢でもよかった。
そのあと俺は、たぶん妹たちが出て行って以来初めて、ぐっすりと眠った。
夢など見ない、真っ黒な眠り。
それは安らぎに満ちていた。
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