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 沙耶の義母、父の妻に当たる人は、平凡な容姿の穏やかそうな人だった。  母とは真逆だ。  スーパーでレジ打ちしながら、近所の人と世間話でもしていそうな、どこにでもいるおばさんの顔だ。  自家製のチキンとケーキが食卓に並んでいた。ずいぶんな量だ。沙耶と六華は喜んでいたが、俺は気後れを感じた。  こういうものに慣れていない。食べることは苦痛に耐えることだ。そういうものとして自分に刷り込んできた。  父の奥さん、美穂子さんに促されて、俺は席に着いた。よく意味のわからない乾杯をして、皆が食事をはじめた。  隣の六華の手元を見る。楽し気な香りとともに、肉汁が滴っている。  六華が俺を見もせずに、無言なまま俺の背中を叩いた。  食べないわけにはいかない。美穂子さんに恥をかかせることになる。  俺を動かしたのは、結局そういう理由だった。    チキンを手に取り、一口かじり取る。  息が詰まった。  旨かったのだ。もちろん。  だが、俺はそれ以上動けなかった。  そのとき俺を支配していたのは不安だった。  こんな世界を知ってしまったら、俺はもとの暮らしにもどれなくなる。  この家に住めるわけではない。  今一緒にいる六華も、いずれ出て行ってしまう。  そうしたら、また元の生活が帰ってくる。  そんなの、耐えられるわけがない。  六華をのぞくみんなが、心配そうに俺を見ているのがわかった。  わかってはいたがどうにもできなかった。  俺はチキンを片手に握った間抜けなかっこうのままで、凍りついていた。 「なんでもありません」  六華が言った。 「ただ、幸せに慣れていないだけなんです」  そうではないと思ったが、そういうことなのかもしれない。  六華が俺の肩を抱き、耳元でささやいた。 「あんたは冬に生まれて穴ぐらの中で育った子熊だ。外に広い世界があることも、時がたてば春が来ることも知らずにいた。でも、それはやってくるんだ。あんたは自由になる。一人でいくらでも森を歩ける。少しずつ慣れていけばいい。私が一緒にいる」    よせ、保護者みたいなことを言うな。  そう思ったが、俺の口から出たのは情けないうめき声だった。  妹が立ち上がり、俺の手を取った。その手に、父の、美穂子さんの手が重なった。  俺はただ、その温度を感じていた。  それ以上のことは、何もできなかった。         
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