元カレの猫

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気がついた時には外は暗くなっていた。私は知らぬ間に眠っていたらしく、突っ伏していた机は少し湿っていた。 「しまった、明日仕事なのに……あ、カーテン閉めないと」 出窓の方へと目を向けると、そこに普段あるはずの黒いシルエットが無かった。普段滅多に入らないケージを確認するもベンタが入った形跡はない。それどころか家のどこを探しても姿が見えない。 さらっとした優しい風が前髪を揺らす。でも窓を開けた覚えは無い。 「うそ……うそうそ、うそ……!!」 風の原因を探っていると、出窓が僅かに開いていることに気づいた。そもそもこの窓を開けられること自体初耳で、ここに越してきてから3年間ずっと不用心に鍵を開けっぱなしにしていたことに背筋が凍る。 出窓は押すと外側に開く構造になっているため、ベンタが自力で開いて脱出していてもおかしくはない。 私は身なりも整えず、部屋着のまま外へ飛び出した。このあたりは住宅街で昼間は車通りが少ないが、夕刻の時間は日曜と言えども帰宅ラッシュで混みやすい。 「ベンタ!! ベンタっ!!」 一度しか振り向いて貰えなかったのに、私が見つけることなんて出来るのだろうか。 そんな不安を抱きながらも、ただひたすらに探し回った。人様の庭を覗き込んで、低木をかきわけて、高笑いするカラスを睨んで、夜の世界に溶け込んだ黒猫を探し回った。 「どこ? どこにいるの、ねぇベンタ……!!」 近所迷惑だと分かっていても、また私の知らぬ間に死んでいたらと思うと声が止められない。名前を呼び続けていないとどうにかなってしまいそうだった。 「うおっ!? おい危ねぇだろ!!」 「ご、ごめんなさい……!!」 「気をつけろ!! ……ったくなんなんだよさっきから、人まで轢いたんじゃ笑いもんになんねぇぞ」 自転車に乗った男性の言葉が妙に引っかかった。嫌な汗が滝のように流れたのを感じた。 あの日の、カレを失った時のように、心臓の音しか聞こえなくなる。落ち着こう落ち着こうと思っても、身体が勝手に肺を動かすせいで息がコントロールできない。 そんなわけない。 そんなわけない。 「お願い、出てきてよ……ベンタ……!!」 どうして、私の猫になってくれないの? どうして、カレの居る世界にこだわるの? どうして、恐れなく外の世界に飛び出せるの? 私はずっと怖かった。地から足を離した生活に憧れはあったけど、その分背負うリスクは大きいから。それなら今は我慢して未来の道を舗装していたかった。 だけど生活が安定していくに連れて、自由が失われていることに気づいた。時間も身体も命さえも制限をかけられていることに息苦しくなった。 私は堅実な人間だ。でもこの堅実さをもっと他のことに向けていれば、それなりに上手くやっていけた気がする。カレの話を聞けば聞くほど、その後悔は大きくなった。 逃げ出したい。抜け出したい。飛び出したい。 積み上げたものを守り続けるこの生活が嫌になった。でも小心者の私は、外の世界へ出る勇気がなかった。 カレとベンタと同じ世界にいけないのはきっと、その差なんだ。 「ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………っ!! やだ、やだやだやだ置いてかないでよ死なないで!! ねぇ、ねぇ……っ、真央くん……!!」 道路脇で横たわっていたベンタは、結局最期まで私の顔を見てくれなかった。 その誠実さが、死ぬほど羨ましかった。
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