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<第五章-Ⅴ>兄妹のイデオロギー
アタシの顔を見るなり、兄である朔は扉を開けた体勢で嫌そうな表情を作った。
「今日は来客の多い一日で嫌になるんだけど」
「あはは、お邪魔しまーす」
案の定ルカとのキスショットに反応した彼は、妹であるアタシを嫌々ながら自宅へと招くこととなった。
先程のカフェでぐずってしまった娘を改めて抱えなおして、ルカと朔の家へと足を踏み入れた。足元に高級そうなリュックが転がっているので、何気なしに蹴っておく。足癖が悪いなんて知ったことではない。紫月は瞼を落として、けふ、けふと時折息を吐いている。そんなアタシたちを丸っこいうさぎのような瞳で兄は見つめて、考えるように視線を落とした。
「…突き当たりがリビングだから」
「はーい―――わぁ、綺麗」
綺麗に整理整頓された部屋にアタシは驚いた。兄はどちらかといえば大雑把でズボラな性格のため、物を不規則に置いてしまう性格だった。一応、彼なりにルールはあるらしい。しかしきちんと整頓されている辺り、この家の実権はルカが握っているようだ。今にも眠りの世界の扉を開きそうな娘をリビングのカーペットへと適当に転がして、兄に「コーヒー!」と我儘に振る舞う。
「はいはい」
兄は呆れ笑いを浮かべながら、慣れた手つきでコンロに放置されていた薬缶に水を注ぐ。かち、かちという火付け音が部屋の隅を突くように響いた。世間話をするようにコンロの火を眺めたまま、兄が質問を投げかける。
「その赤ちゃん、千夜香の子?」
「そーう、紫月っていうの。最近やっと歩けるようになったんだよ」
「ふうん」
沈黙が走る。それ以上の質問は御法度だと感じているのか、必要のない気遣いが鬱陶しい。アタシはダイニングテーブルの入り口側の席に腰を掛けた。暫くして薬缶から湯気と共に甲高い音が鳴り響き、沸騰を知らせる。キッチンを背にして寄りかかっていた兄が振り向き、火を止めた。慣れた手つきで食器棚からマグカップを取り出して、キッチンに出しっぱなしにされていた粉末コーヒーの瓶を手に取る。
兄の家で、兄以外の気配がする―――兄が誰かと共同生活を何なく過ごしているということの違和感は拭えない。兄妹の中では唯一の孤立した存在で、協調性なんてほとんど持ち合わせていなかったはずなのに、誰のせいでこんなにも変わってしまったのかしら。
「はい、お待たせ―――ミルクと砂糖はないから勘弁してね」
「ありがとー、最近ちゃんとブラック飲めるようになったの。偉いでしょ!」
「普通でしょ」
兄も椅子に腰を掛けた。彼の背後で紫月が時たま「あう、あう」と寝返りを打っている。朔は赤ん坊という異質の存在が恐ろしいのか、視線だけを後ろに投げかけては考えるようにマグカップの縁を撫ぜた。
「赤ちゃんのこと、気になるの?」
「まあ…それは、そう、でしょ。俺が想像したよりずっとデカいんだけど何歳?というか、千夜香はちゃんと卒業したの?」
「ひっどーい、ちゃんと卒業したよ。高校にいた頃にはもう妊娠してたけど、三年生の後半はほとんど学校行かなくてよかったし」
兄の顔が次第に抜け落ちていく。同じ顔立ちをしているというのにアタシと朔では使う表情筋が違うせいか、彼の真顔は陶器で作られた人形のようで恐ろしい。
「―――相手ってあのおじさん?」
「うん、そうだよ」
「はぁ…、まじでありえない。あのクソ爺」
低く蛇が這うように吐き出された言葉に、アタシはあっけらかんと返答をした。アタシからすれば、この子供のことは既に過去のことだ。
朔はこめかみを押さえながら、誰に聞かせるでもない独り言を小さく呟き続けている。そして、不意に顔を上げた。
「今、一人暮らし?仕事してるの?」
「最近ようやっとって感じかな?一人暮らしだけど、家には彼氏いるからへーき」
「お前さぁ、自分の身体をもっと大切にしろよ―――男と違って、女の子の身体は丈夫じゃないんだから」
「はいはい、お説教は懲り懲りです。今日はせっかく、せっかく、お兄ちゃんにアタシのかーわいい娘を見せに来たんだから怒らないで」
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