プロローグ『終わりの恋』

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プロローグ『終わりの恋』

「ルカは僕のこと好きにならないでね」  彼の小ぶりで薄い唇が惨酷な言葉をなぞっていく。ひどくゆるりとした声だった。  寂れた実習棟の廊下はひどく暗い。看護のカリキュラムのためだけに作られた教室は無駄に広く閑散としている。実習をするためだけに設置された多数のベッドの上、眼前の少年は足をだらりと投げ捨てながら座り込んでいた。外は紫色のカーテンが空を覆っている。じめじめとした空気が俺の肌に纏わりついて離れない。こめかみに一筋の汗が伝う。床に落ちた紺色のブレザーには白い液体がこびりついていて、ひどい悪臭を放った。苛立ちとやるせなさが加速する。  はだけた白シャツと赤く擦れた眦。彼の美しい黒髪にさえ遺伝子の象徴である液体が付着して固まっている。 「ルカ?」 「……ならないよ」  燻った胸中を隠すように、俺は彼の汚物塗れの髪を撫ぜた。  こんな凄惨な出来事に巻き込まれているのに、眼前の少年の瞳は星空のように美しく澄んでいた。杏のように丸い目には暗い青のように映る不思議な虹彩が埋められている。そのアンバランスささえ彼の魅力のようで手放したくないと思った。さらりと揺れる真っ直ぐな黒髪は彼のまろい頬を撫でている。きめの細やかな白い肌に滲んだ赤みがまるで林檎のようで、少年の柔和な印象を一層際立たせた。  俺の言葉に、彼―――直井朔(なおいさく)は破顔一笑した。高校三年生の夏の日の出来事―――俺、香月(かつき)ルカが一生の失恋を誓った日だ。 ***  液晶ペンタブレット上で紫色の空を描きながら、不意に昔のことを思い浮かべた。あの教室での光景が瞼の裏に張り付いて離れない。自分の不甲斐なさや無力さ、どうしようもない胸の痛み、それらが一気に刻まれたあの出来事。空調の効いた部屋では湿り気なんて感じないはずなのに、あの夏を思い出す度に肌は汗が乾いた後かのようにべたつく。  視線をゆらりと彷徨わせて、壁に取り付けられている時計を眺める。時刻は未明を過ぎて、東雲時の午前五時を指していた。 「三限からだから今からだと六時間は眠れるか」  脳内で明日の授業をなぞらえながら、握り続けていたペンをデスクの上に置く。バイトを終えたのが午後十一時、そこから帰宅をして午前零時。作業に取り掛かったのは午前一時を過ぎたころだから、おおむね四時間ほど作業に取り組んでいたらしい。疲労気味の瞼を癒すように数度瞬きをした。ちかちかとカラフルな色が視界を散乱する。  同居人ももうすぐ帰宅する頃だろう。凝り固まった身体を軽く解しながら、ゲーミングチェアから立ち上がった。壁際に設けた作業スペースと隣り合わせるように同居人のドレッサーが並べられている。今日も今日とて随分と大きいメイクポーチからブラシやらアイシャドウやらがはみ出ている。他にもアイロンもコンセントに繋がったままだ。危ないからいつも抜けと言っているが守られたことはほぼない。  俺たちが勝手にリビングとしている部屋には俺の作業スペースと同居人のドレッサー、そして食事をするためのダイニングテーブル、キッチンがあった。隣の部屋は寝室で襖で隔てられているはずだが、二人してめんどくさがって開けっ放しでいることが多い。  身体を引きずるようにベッドへ向かい、倒れ込んだ。一人で使用するにはダブルベッドは大きすぎる。打ち捨てられ丸まったタオルケットを解いて、身を包む。脳の先端からじくじくと眠気が落ちていった。  しばらくして。  がたん、と音がした。  夢の随に誘われていた俺の意識が浮上する。どうやら同居人―――ナオが帰宅したようだ。ずるりずるりと廊下を這うような音が聞こえて数秒。リビングの扉の隙間を縫って、洗面台から水音が妙にご機嫌な鼻歌と共に零れ落ちた。また暫く朧げに現実と夢の狭間を彷徨っていると、不意にマットレスが沈んだ。さらりと衣擦れ音が聞こえ、彼の少し濡れた髪の切っ先が頬に触れた。 「…起きてる?」 「寝てる」 「起きてるじゃん」 「…寝てたんだよ、お前が帰ってくるまで」  俺は瞼を閉じたまま、タオルケットを片腕で持ち上げて合図をする。彼は特に興味もなさそうに「ふぅん」と頷き、タオルケットの中に身体を滑り込ませた。ふわり、と男物のコロンの匂いが鼻腔を突く。 「臭い、毎回思うけど風呂入れよな」 「シャワーは浴びてるんだけどね、匂う?」 「だから言ってんだろ、飽きないもんだね」 「そうだね」  彼は愉快そうにからからと声を上げた。  軽快で芯を捕らえさせない口調はナオのとっておきだ。時には男を従えさせるために真実味の色を帯び、また別の折には遊んでもらうために遊び人のようなおちゃらけた口調になる。まるで女優のように声音を変え、直井朔という人物を一概に形容できなくさせている。男を騙すために必要とあらば自分さえ騙す。彼のその執念が時折ひどく恐ろしく感じるのだ。  直井朔は俺の高校生時代の同級生だ。三年間、同じクラスで過ごした親友と言い換えてもいい。彼の第一印象はひどく儚げで、桜の木の下でいつか消えてしまうのではないかと錯覚してしまうほどだった。百六十五センチ未満の身長に瘦せ細った体躯。中性的で夜空のように広くて煌めいた瞳、小ぶりな唇。癖もなくまっすぐ伸びた黒髪と形のいい頭。真っ白な肌は女子でさえ羨望の視線を向けるほどのものだった。まるで傾国の美女かの如く、彼は良くも悪くも他人の注目を集めた。  例えば知らない女生徒や他校の生徒に告白されたり、女教師に色目を使われたり。何よりもひどかったのは同性からの妬みや嫉み、羨望と増悪を綯い交ぜにした好意だ。思春期という繊細で多感な年頃に、誰もが羨むほどの相貌を持っている同性の男を許せる人物はあまりいない。何よりナオは女性のような見目や仕草をしながら、思考や骨ばった身体は間違いなく男のそれで、そのアンバランスさが加虐心を燻るのだ。  俺が最初に見つけたのは高校一年生の夏、体育館裏。次に見つけたのは高校二年生の冬、部室棟。最後に見つけたのは高校三年生の夏、実習棟看護教室。ナオは男に押さえつけられ、屈辱的な経験をした。汚物塗れの制服を、何度も洗った。何度も体操服を貸した。きっと俺が見つけただけでそれだけあるのだから、未遂を含めて他にも経験があるのだろう。ナオは多くを語らない。そんなことがあった翌日でも、いつもと変わらない素振りでからからとクラスメイトとくだらない談笑をしている。彼のそういう強いところがひどく惹かれてたまらない。  すう、すうと寝息が隣から聞こえる。瞼を開けて、彼の方を見る。窓の隙間から差し込む薄暗い光が朝を知らせていた。昔から変わらないあどけない美貌だ。  とある事情でルームシェアすることになり、こうして同じベッドで眠っている。きっとどの友人よりもこの寝顔を見て、どの友人よりも彼に信頼されているだろう。希望的観測かもしれないが。  彼は高校を卒業してすぐ、女の格好をして夜の街に繰り出すようになった。理由は知らない、知りたくもない。朝帰りをする時は、ほとんどの場合、男漁りに成功して抱かれて帰ってきている。不快な香水の色香はそれだけ密接な距離にいたという証明で、ひどく心臓が冷えた。  だけれど、止める術はない。俺はナオにとって親友で絶対に惚れない相手で―――その均衡を破ってしまえば、彼は途端に俺に興味をなくして離れてしまうだろう。そういう飄々とした猫のような人物でもある。独占欲を見せたりしてはいけない。 「…おやすみ」  彼の林檎のような赤みを帯びたまろい頬を指先で撫ぜる。一瞬煩わしそうに眉を顰めるも、ナオはまた健やかな表情を見せた。それに安心して俺も現実から逃げるように瞳を閉じた。
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