<第一章-Ⅰ>噂

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<第一章-Ⅰ>噂

 くわぁ、と不意に欠伸が漏れた。この時期になると大学生という職種に慣れてしまった皆々がそれなりに授業を理解して、講義室が疎らになる時期だ。かという俺も寝ぼけ眼で夢うつつの状態で、授業に集中しているとは言い難い。最もたたでさえ広い講義室の後方を陣取っている時点でやる気のある授業ではないのだけれど。  こつん、と隣の席に座った清水雫(きよみしずく)が俺の肘を小突いた。俺は胡乱げな眼を向けながら「何?」と零す。雫はちらりと間延びした講義に勤しむ教授を見て、すぐに視線を俺に戻した。 「今日、遊びに行かね?研究室の女子がお前を誘えってうるさくてよ」 「パス」 「えぇ、即答だなおい。お前、顔綺麗なんだしさ、たまにはそういう隙くらい見せてやれよ。あまりにも飲み会やら合コンに来なさ過ぎて変な噂立てられてるんだぜ」  大学生らしい軽快な言葉に、若干の面倒臭さを覚える。しかしなんだかんだ言って、雫という男は俺の嫌がることを絶対にしない。互いの境界線を瞬時に把握して、その一線は絶対に越えてこない。だからこそ俺は友人として認めている―――若干の軽薄さはご愛嬌だ。 「例えば?」 「なんか男の恋人がいるとか、実は女に興味ない…ゲイ、だとか。そういう類のやつ」 「ふぅん」  俺の反応があまりにも軽いものだったせいか、雫は綺麗に整えられた眉をぴくぴくと痙攣させた。せっかく心配してやってるのにという感情がにじみ出ている。 「本当に興味ないんだな、お前。嫌じゃねぇの?そういうあらぬ疑いかけられて」 「別に。男と住んでるっていうのは事実だし―――というか周りの女子が俺の同居人より可愛かったら食指も動くかもだけど、ね?」 「いや、俺に同意を求められても…。俺、その同居人知らんし。それじゃあ何か?お父さんがイケメンでそれ以上の顔面じゃないと受け付けませーん、っていってる女子と同じ状態ってことか?相手に恋愛感情は抱いてないけど、かわいいの飽和状態すぎて興味がないと…」 「流石、雫の言語化能力には素直に憧れるよ」  けらけらと小声で笑うと、雫は静かに溜息を吐いて頭を抱えた。実際に八割以上は本音だ、俺がナオに恋しているという事実を除いては。確かに女性は素晴らしいと思う、同居人であるナオも女性の装いをする時はありとあらゆる化粧品を駆使して、絵を描くようにひとつの芸術作品を作り上げている。彼女らには尊敬の念すら抱く。豊満な体つきだって嫌いじゃないし、女体には女体にしか表現できない美しさがある。  ただそれを上回るほどの芸術が、彼にはあった。 「もういいよ。研究室の女子にはそれとなく誤魔化しとくからさ」 「お気遣いどうも」  タイミングよく教授の終わりを告げる声が響く。一斉に講義室が騒がしくなった。  項垂れていた雫も顔を上げて、慣れた手つきでレジュメやらを仕舞う。彼の爪が短いせいか、ぺたりとくっついた下敷き取るのに苦戦している。俺も同じく、大学入学の際にナオがプレゼントしてくれたリュックに荷物を詰め込むと苦戦している雫を置いて立ち上がり、ジーンズのポケットからスマホを取り出した。 『今日は家にいるよ』  俺の『今日夕飯いるの?』というメッセージに対して、ナオが十分前に返信していた。俺は半ば歩きスマホのように画面をスライドさせる。 『了解。暑いから今日は冷やし中華ね』  誰にも見られないようにすぐにスマホを仕舞った。恐らくこういう素振りが噂を助長させているのだろうけど、特に気にしてはいない。だってナオは誰にも見られたくない宝物のような存在なのだから。
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