<第一章-Ⅱ>冷やし中華

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<第一章-Ⅱ>冷やし中華

 その後、残りの一コマを受けて自宅に帰ると、ナオが猫のように気だるげにフローリングの上で体を伸ばしていた。うなじにはしっとりと汗が滲んで、黒髪が張り付いている。エアコンは入れているが節約のために温度は二十八度に設定している。予定がなかった彼にとってはむさくるしい一日だっただろう。 「ただいま」 「おかえり~、ねぇ、ルカ」 「ダメ」  顔を爛々と輝かせて縋るナオに、すぱりと切り捨てる。 「ちょっと!まだ何も言ってないじゃん」 「どうせエアコンの温度の話だろ、お金ないんだから節約しないと。ただでさえ身の丈に合ってないようなマンションに住んでるんだから」  そうなんだけどさぁ、とナオはフローリングにまろい頬をくっつける。白いTシャツに部屋着用のホットパンツ、日焼けを知らない足が美しく伸びている。どうやら全力で涼感を覚えているらしい。ずっとそこにいたのであれば、普段は冷たいフローリングもぬるくなっているだろうに。 「夜ごはん作るから待って―――あ、そうだ。ナオ、また昨日アイロンをコンセントに差しっぱで家出たでしょ。危ないから気を付けてって言ってるだろ」  冷蔵庫からきゅうりとハムを取り出しながら小言を漏らす。ナオは気の抜けた声で「ごめんなさーい」と零した。いつものことだ、恐らく数日後にはまた俺に同じことで叱られるのだ。  きっと他人から見れば煩わしささえ感じるのかもしれないこの小言を漏らすという行為が、俺にとっては大切なやりとりだった。ナオの一番大切な場所に自分がいて、彼の日常の中にきちんと俺が植え付けられているようでひどく胸が疼くのだ。  慣れた手つきで壁に立てられたまな板を取り出して、きゅうりとハムを置く。シンク下の棚から包丁を取り出すと、軽く水で湿らせた。どうやら昼に使用したらしい洗浄された鍋を食洗器から取り出して、お湯を沸かす。  とん、とんと軽快な包丁のリズムが部屋に充満した。具材をすべて切り終わって、鍋で生麺を茹でる。 「何か手伝おうか?」  いつの間にやらフローリングから冷たさを感じるのを諦めたらしい彼が尋ねる。俺は背後に立ったナオを一瞥して「皿出しといて」と答えた。 「あいあいさー」  にこりと花が綻ぶように笑った彼は特に迷うこともなく、食器棚へと向かった。  改めてここは俺とナオの家なのだと感じる。高校時代のナオはどこかアイドルのような存在だったから、親友だったとはいえど深く関わろうとは思わなかった。いろんな経緯を経て、彼と住むことになって、暫くの間は実感が湧いては悶えていたものだ。生活に慣れてきた今もたまに感じる、俺が慣れたようにまな板やら包丁を取り出して、ナオもまた食洗器の使い方も知っていれば食器がどこにあるのかも知っている。節約のために共通のルールも律儀に守っている。  愛おしい、と思う。これからも彼と一緒に居たいと思う。傲慢、だろうか。ナオは男性に抱かれているが異性愛者で、いずれは綺麗な女性と結婚するだろう。あの顔面だから引く手数多だろうし。俺はその時親友として、何気ない顔で彼を祝福しなければならないのだ。  先のことを考えるのは止めにしよう、陰鬱な気分になるだけだ。  茹でた麺を水で締めて、ダイニングテーブルに置かれた浅い皿に麺を盛り付ける。切った具材もそれなりに丁寧に盛って、最後に備え付けのたれをかけた。 「おー、綺麗に盛り付けたね。ルカのわりには」 「文句あるなら食わなくていいよ」 「食べる食べる!ありがとう!」  席に着くと二人で手を合わせて、「いただきます」と声をそろえた。  いつもの日常―――これが永遠に続けばいいのに。
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