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<第一章-Ⅲ>夜のような瞳
食事を終えて、片づけるのはナオの役目だ。同居二年目の際にどうしてもナオが欲しいということで購入した食洗機は、進言したナオも許可した俺もよく使用している。彼が余洗いをしている間に、ダイニングテーブルをアルコールで吹き上げる。容姿に寄らずズボラな彼はそんなに几帳面にならなくてもと笑うが、どうしても気になる性分なのだ。
全ての片づけを終えると、俺は自分の戦場についた。常にスリープモードのパソコンを眠りから覚まし、準備をする。線が変な弧を描かないように専用のグローブをつけてペンを持った。
俺はこれでもしがないイラストレーターである。主に歌い手やバーチャルシンガーと呼ばれる類のイラストを作成していたりと細々と依頼をこなしている。とはいっても大手のイラストレーターの足元には及ばないほどの収益だ。単価も低い。
絵は自分の心を浄化するもので、俺の苦しさや痛みを緩和してくれる存在だ。何かと窮屈だった人生においての逃避行先で、なくてはならない存在。
『絵、素敵だね』
高校を入学した当初、俺は高校生活というものに馴染めなかった。浮足立つような空気も、男子生徒が自分の性をアピールするようなイキりも、女子のあざとくて甲高い声も、すべてが苦手で仕方なかった。俺はそういう思春期の波に乗り遅れたのだ。
教室の隅でただひたすら逃げるように絵を描いていた。白いルーズリーフも、スケッチブックも、醜くて汚い俺を許してくれるような気がした。
そんな俺に、ナオは声をかけてくれた。開けっ放しの窓から差し込む太陽の光が彼の艶のある黒髪を爛々と光らせて美しかった。天使のような純粋無垢な素振りをしながら、瞳だけは夜の海のように凪いでいた。入学式当日から随分と綺麗な男がいるものだと感心したものだけれど、間近で見るとそのアンマッチさも相まって、余計に心の臓が燻られるような気がした。
瞬間的に悟った、彼は周りで馬鹿をしているような男たちではないのだと。その彼らの数歩先を進んでいる、大人の少年なのだと。
そんな彼に褒められたからひどく嬉しくなったのだ。身近な大人からは絵を認められたことなどなかったから。誰かに絵を認められるというのは乾いてひび割れた土に水をしみこませるような感覚なのだと分かってしまった。
それ以来、本腰を入れて絵を学ぶようになった。親には内緒で美術部に入り、独学だったものを根本的に理論的に詰めなおした―――ナオに褒められたかったから。
ことり、と麦茶が俺の陣地に置かれた。集中が途切れない程度に視線を上げると、ナオがドレッサーの前に座り込んで俺を眺めていた。背もたれのない椅子の上で細くて綺麗な足を腕の中で抱えて、まるで俺の本性を暴くように、夜のような瞳をこちらに向けている。
「……何?」
「ん?……なんでもない。ただ絵を描いているルカっていつも真剣で努力してて綺麗だなって思っただけ」
「そりゃどーも」
突如訪れる賞賛の言葉に、俺は視線をペン先に落とす。彼の言葉に他意はない、そこが彼のいけないところだと思うし、彼の良いところだと思う。純粋に素直に思ったことを口にして褒める。彼の性格を知っているからこそひどくいたたまれない気持ちになる。
「でも、僕がじっと見つめるとルカ集中できないよね」
「別に。昔もずっとこうだっただろ。気にしない」
「そう?じゃあ、暫くの間は眺めてようかな?」
「ご勝手に」
集中を促すように俺は息を吐く。線を描いて、描いて、描いて。俺の胸の内だけにある美しさを、醜さを、表現する。俺だけの世界を描いていく。俺の目に映っている景色が、少しでも誰かの胸を打つように。
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