<第一章-Ⅴ>片恋と失恋

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<第一章-Ⅴ>片恋と失恋

 一階に辿り着いたエレベーターから足を踏み出して、メインロビーを抜ける。  この話題は俺たちの中では割とデリケートな話題だ。ナオはお金の工面が出来ずに、現在はフリーターとして働いている。彼の家だって困窮するほどの貧乏というわけではないのに、彼の母親がナオを大学に行くのを許さなかったのだ。  薄暗い道を歩く。繁華街が近くにあるとはいえ、どちらかといえば住宅街寄りのこの場所は外灯が少ない。通りがかる車の明かりすら外灯としての役割を果たしている。  チェーン店のケーキ屋さんの前を通り過ぎ、個人経営のゲーム屋さんの前も通過する。ひどく暗い道の中、コンビニはどの光よりも燦然と輝いていた。まるで虫を寄せ付けるかのように。コンビニの前にはそれっぽい不良少年がいて、胸中で不快感が芽生える。  彼らの隣を通り過ぎると、今までの生ぬるさが嘘かのように冷え切った空気が俺たちの汗を冷やした。 「何買うんだっけ?」  俺が尋ねると、ナオはくるりと視線を店内に彷徨わせて指差した。 「ティッシュ…と、僕のデザート」 「了解、ちょっとだけトイレに行く。悪いけど、俺の買い物も含めてお願い」  ナオにゆるりと背を向けると、彼は少し拗ねたように頬を膨らませた声で「いってらっしゃい」と見送った。夜中のコンビニ店内に放置するのも忍びないが、わざとらしいくらい明るい蛍光灯の下で目立つ奴はいないだろう。いたとしても店員が止めに入るなり、なんなりするだろう。そう、高を括った。  結果的にこの判断が俺とナオの止まった歯車に油を差して、ゆるりと運命が回り始める。  用を足して、店内に戻ると酒気塗れの男の声が俺の鼓膜を揺らした。 「ね~、きみ、ひとりぃ?」 「違います、友達と来てるんで」  嫌悪感の滲んだナオの声が聞こえた。平生よりも固い声質に、俺は視線を彷徨わせる。トイレから出てすぐの場所からは入り口である自動ドアとさらにその奥にある小さいイートインスペースくらいしか見えない。棚に遮られて詳細は見えないが、どうやらナオと不審者は俺のいる場所と対角線上に位置するレジ近くにいるようだ。商品たちの隙間からナオの歪んだ顔が覗いた。絡んでいる男は二十代後半くらいだろうか、薄汚いプリン頭に汚れた作業服を身にまとっている。 「そんなこと言わずにさぁ」  俺が彼等に近づいた直後、不躾な男がナオの細い手首を握った。カラフルだったナオの表情がさらに抜け落ちていく。 「あの、手離してください。まじできもいです」 「はぁ?!てめぇ、コラ、何様だ」  男は逆上したように声を張り上げた。ナオは抵抗しようとして相手を逆上させてしまうきらいがある。女装姿の際はどんな変態行為でも甘んじて受け入れるのに対して、本来の性別では受け入れる素振りすら見せない。  一歩、さらに一歩と俺の歩が進む。 「お前、少し可愛いからって調子に乗んなよ!」 「そもそも乗る調子なんてないし―――!」  あと少しでナオの肩を掴める、と思ったその時―――。  ぱん、  眼前で色が弾けた。一瞬、何が起きたか俺もナオも認識できなかった。数秒の沈黙の後、ナオのシャツに飛散したオレンジ色の染みに合点する、カラーボールだ。そして投げたであろう人物のいるレジカウンターに視線を向けた。  同じ年頃の少女だった。ウルフカットの黒髪に、女性にしては長身の体躯。彼女が身体を揺らす度に耳元のピアスがしゃらん、しゃらんと揺れていた。真っ赤なルージュに、目力の強い化粧。如何にも自我の強そうな子だった。 「そういうの迷惑なんで他所でやってください。女の子に相手されないからってかわいい男引っかけて遊んでしょーもない。これ以上やるなら警察に通報するんでそのつもりでお願いします」  淡々と放たれる言葉に、頭が冷えたらしい男は薄汚れた作業服を誤魔化すように拭いながら「覚えてろよ!本部にクレーム入れるからな!」と情けない声を上げた。  少女は呆れたように溜息を零しながら「お好きにどうぞ」とピアスを揺らす。どこまでもあっけらかんとした態度に、まるでナオと正反対だなと思った。そう、まずはナオの心配をしないと―――、逸れていた意識を同居人に戻す。 「ナオ?」  ずきん、胸が痛くなる。ああ、なぜだと疑問符が浮いては沈んで、また浮いていく。  人が恋に落ちた瞬間、俺は初めて見た。夜のように凪いでいた瞳がきらきらとたくさんの光を取り込んで、一点を見つめている。不機嫌で色を失っていた頬が熱さを取り戻して、林檎のように赤くなっていた。 「ナオ…」  二度目の失恋、男の俺が女になんか勝てるわけないだろ。  ナオは男に抱かれることができる“だけ”の異性愛者で、そういう素振りを素の姿で晒すと途端に嫌悪感を滲ませるような性質で。そして恋の味を知ってしまったようで。  救いようがない。俺は呆然とその場に立ち尽くした。爛々と光る蛍光灯すら煩わしく感じてしまうほど、心臓の奥がずきんずきんと痛んで、陰鬱な気持ちを加速させた。
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