<第五章-Ⅳ>価値観

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 紫月が同意するようにまた「あ、あ」と輪郭すら捉えれらていない音を発する。落ち着かせるように俺は娘の頭を撫でた、喜ぶような声が鼓膜を揺らす。  そもそもレオは、大前提としてナオの過去を知らない。そのためその言葉の意味を必死に解釈しようと、口元に手を当てて視線を落としている。その様子に千夜香も気付いたのか「あ、知らない感じなんだ」と優しさを捨てた声を零した。 「知らないって何を?」 「アタシの実家の話?聞きたいなら話すけど」 「おい」  真っ昼間のカフェ、しかも本人の許可を取らずにするような話ではない。俺は柔和な笑みを浮かべたまま語ろうとする千夜香を叱るように睨みつけた。彼女は子供のように唇を尖らせて、肩をすくめる―――そういう仕草がとてもナオに似ている。 「複雑な家庭ということは分かりましたけど、それでも家族は大切にするべきかと思ってしまいます。少なくとも私の実家も古い価値観が蔓延ってて生きづらいとは感じましたけど、流石に出産報告を家族にしないほどのこととは思えなかったので…育ててくれて感謝してるからこその生きづらさもあると思うので」 「へえ」  千夜香の声が低く這うように落ちた。無自覚に積み重ねられるレオの悪意に苛立っているようだった。飲みかけの飲み物を、こつん、とテーブルに叩くように置いて肘をつく。 「あなたは豊かな暮らしが出来て、正しく努力できるような環境で何よりだわ。その正義感は翳すべき人に翳しなさいな―――少なくともアタシやお兄ちゃんには翳さない方が賢明だね」 「はぁ…?」 「無知は罪ってことだね、あー、恐ろしい」  会話を遮断するように言葉を吐き出し、仰け反るように千夜香は椅子に持たれかかると意味もなく母音を零した。赤ん坊も真似するように仰け反ったので、俺は慌てて紫月の柔らかい肉厚な腰を抑える。 「わ、あっぶね」 「そうやって他人を断ち切ってしまうからどこまでも理解が得られないんじゃないでしょうか?」 「待て待て、待て!ここで喧嘩するつもりか?」  食ってかかろうとするレオに、俺は止めに入る。横から軽蔑したような冷徹な視線が穿たれている、ような気がした。 「相互理解をしようという話です」  俺すら睨みつけてしまう常識と正義感を翳している彼女に、「それはなぁ」と頬を掻く。 「多分無理だよ、世の中には理解できない価値観って存在するものだから。それに君の言ってることは”正しい”と思うと同時に、俺からすればナオや千夜香ちゃんの考えも”間違ってない”と思えるんだ。どんな物事にも悪い側面と良い側面が混在するものだと、俺は思うけど」 「悪い側面と良い側面…例えば?」 「んー、ちょっと過激だけど、多分、君の価値観では人を殺すことっていうのは絶対的な悪だよね?」 「それは勿論」  迷いもせずに彼女は首肯する。隣で千夜香が肩をすくめる仕草を感じた。レオが苛立ったように彼女を睨みつけている。 「じゃあ暴漢に襲われたとして、弾みで殺してしまったのは?」 「それは良いとは言えないですけど仕方ない事では?」 「そうかな?事実だけを見たら人を殺したっていう事実は変わらないだろ?さらに話を大きくすると、暴力とか戦争もそうだよ―――世の中を変えるためには仕方なかった、むしろ科学が発展したという意見もあれば、被害の話をする人もいる。この世の大半はそういうグレーの世界で、俺たちは判断を委ねられている」  はぁ、とレオは困惑したように頷いた。どうやら心には響いていないらしい。確かに家族の捉え方でこういう話をされても困るだろう、俺は静かに息を吐く。 「まあ話が飛び過ぎたけど、多分その白黒はっきりつけたがる性格は少なくとも生きづらいと思うよ、俺は―――なんとかする”べき”なんて、相手に対しても、自分に対しても選択肢を狭めてることになるだろ」 「あはは、間違いない」  野次のように千夜香の笑い声が飛び交う。俺は鬱陶しそうに息を吐いて、隣を睨みつけた。彼女は飄々としたように肩をすくめて、俺の話を促す。本当に兄妹だと感心するくらい、ナオと仕草がそっくりでいて嫌になる。  膝元では相も変わらず子供が「あ、あ」と零していた。 「―――じゃあ、他人と迎合できない自分って嫌にならないんですか?」 「それは勿論、なるに決まってるでしょ」 「アタシはならないけど?」  真反対に発される意見に、レオは困惑したように視線を彷徨わせた。そんな彼女の様子が面白かったのか、くふくふと千夜香が肩を震わせて口を開く。 「あなたが何に悩んでて、何に生きづらさを感じて、その価値観が形成されたかは分からないけれど、他人に言われるがままに合わせた価値観は”自分”の価値観ではないじゃない?それはあくまで”他人”の価値観であって、あなたが熟考して作り出したものではないものにアタシは価値を感じない」 「……他人に批判されるのが恐ろしい、認められたいと思うことはダメな事ですか」 「別に?ただ要求には相手へのメリットが伴うものでしょ。そういうやり取りにおいて重要なのは、相手のメリットが自分にとって耐えうるかどうかが判断基準―――あなたの悩みはあなたの要求に対して相手のメリットが大きすぎて痛みが発生してるに過ぎないんだよ」  空中に絵を描くように、千夜香はくるり、くるりと指で円を作った。レオは言葉を咀嚼するように視線を泳がせて、ふと目線が千夜香に戻ったかと思えば瞳から透明の感情を零す。 「あーあ、泣いちゃった」 「いや、千夜香ちゃんのせいでしょ」  慌てふためく俺が面白いのか、千夜香はけらけらとテーブルを叩きながら笑った。暫くして、小さく申し訳なさそうに「すみません」とレオが頭を下げる。 「あ、いや、別に…何か辛い事でもあった?話だけなら聞いてあげられるけど」 「いえ、大丈夫です。ほんの少しだけ、自分がちっぽけに思えて悔しくなっただけです―――改めてちゃんとナオさんとお話ししないと」 「あー…俺もちゃんとナオと話しないとな。でも連絡つくか微妙なんだよな、なんせ荷物取りに行った奴とも連絡つかないし何かあったんかな」 「みんな、お兄ちゃんと話したいことあるんだ?特別な方法あるよ!」  千夜香は愉快そうな表情で甲高い笑い声を響かせながら、スマートフォンをなぜか俺と彼女の中間くらいに翳す。 「え?何」 「はい、チーズ」  シャッター音と共に、頬に柔らかい感触がした。その様子を見ていたレオも驚いたように力強い目を丸くさせている。 「は?」 「お兄ちゃんのことだから、ルカさんとのキスショットを送れば一発だよ」 「は?」 「各自この方法でどうぞ!ルカさんの連絡は多分どんな気分の時でも返してくれるから必要ないと思うけど」  膝元で赤ん坊が同情するように「あう、あう」と俺の手を叩いた。俺が顔を赤くするまで、あと数秒。
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