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そして、現在に至る。
「ナオは今日予定ないの?」
感情の起伏についていけない頭がずきんずきんと痛む。俺は誤魔化すように頭を掻いた。
「あと三十分したら家出るかな~、今日はバイトがあるもんで」
「遅番なんだ?じゃあ夕飯はいらないよな?」
「うん、いらな~い」
ナオはダイニングテーブルの椅子に座りながらスマホを真剣に注視している。時たま頬を緩ませては文字入力に勤しんでいた。相手は昨晩のコンビニ店員だろう。どうやら相手側の返信速度もそれなりに早いらしい、普段はスマホの連絡を煩わしいとさえ言っているナオがスマホを見つめたままだ。
「昨日の?」
俺が冷蔵庫から麦茶を取り出しながら尋ねると、ナオは「うん」と首肯した。
「ふぅん」
麦茶を注ぐ音が部屋に響いた。随分と冷え切った声が出てしまったことを反省しながら、俺は「よかったじゃん」と零した。
心の底からの本音ではある。自分が把握している性的指向と周囲から認知されている性的指向に幾許かの軋轢があった彼からすれば、青天の霹靂かの如く素晴らしいことだろう。友人として心の底から良かったという安堵と二度目の失恋の痛みが澱のように心の奥底にゆらゆらりと募っていく。
「何が?」
「ナオ、あの子に一目惚れしたでしょ。お前にしては珍しく顔に出てからさ、俺としては不健全な付き合いを続けるより健全に生活してほしいんだよね」
思ってない―――ナオは彼自身に性的な視線を投げかける男性を毛嫌いしていて、まだ心持ちとしては優越感に浸れた。俺はお前らと違うのだぞと。醜い心だ。
「ルカの言う健全って…何?」
「想像の通りだろ。友人としては女の子と恋愛して、いずれは女の子と結婚してほしいと思ってる。お前の過去のことも知ってるし、家族のことも知ってるから余計にそう思うんだよ」
「別に僕は不幸せじゃないよ、今だって幸せだって思ってる。他人から弱いとか辛かったよねって言われるのが一番腹立つんだけど」
言葉が加速していく。別にナオを傷つけようと思って発言しているわけではないのに、思考の輪郭を捉えて言葉にするまでに彼が傷つくようなものに変換されてしまう。
ナオは眉間に皺を寄せながら、更に言葉を紡ぐ。
「僕がこうなってるのは僕がこうしたいからで、過去のことなんて一切関係ない。そこを履き違えないでくれる?」
嘘つき、嘘つき。自分の行動が自傷だということを本当は理解している癖に。
直井朔が生まれ育った環境はひどく劣悪だった、と聞いている。ナオは多くを語らないが、父親と彼の兄に性的な虐待を受けて育ったらしい。ナオの仕草が男のそれではないのは、その二人が母親の仕草を嫌うからわざとそうしたのだと、以前俺に零したことがあった。
ナオは環境によって自分らしく生きることを封じられた人間なのだ。可哀想だと形容するほど、彼は弱くはないけれど、それでも高校から現在に至るまでの彼の行為を見ると自分を蔑ろにしても幸せを願ってしまうのだ。
性的虐待を受けた人間の多くは性に奔放になる。それは自分が与えられた恐怖や屈辱を乗り越えるための行動に過ぎない。彼が毎晩男に抱かれに行くのはそれでしかなく、ほとんど自傷に近い。ただ素の自分を抱かれてしまうと、彼の中の尊厳が崩れ落ちてしまうから、ナオはメイクをして、女の格好をして抱かれに行く。
すべて分かりきっていることなのに、ナオにそれを伝えてしまうと壊れてしまう気がして口に出せなかった。
「俺は……友人としてお前が幸せになってほしいだけなんだ、それ以外は何も望まない」
望んではいけない、本音を反芻する。
視線を床に落とした、手元にある麦茶がゆらりゆらりと滑らかに波を作っている。映り込んだ俺が不安定に搔き消える。
「………嘘つき」
ナオは小さく呟いて、そのまま席を立った。寝室に移動して、僅かに衣擦れ音が聞こえてくる。どうやら着替えているらしいが、顔を上げられなかった。彼の表情が視界に入ると、俺の本音が、心配が、零れ落ちてしまいそうだったから。
嘘つきと放った彼の表情はどんな顔だったのだろうか、想像しても侮蔑以外のものが思い浮かばない。
暫くして、ナオは「行くから」とリビングの扉を閉めた。
「いってらっしゃい」
エアコンの設定温度は二十八度のままなのに、部屋はひどく冷めていて、ぶるりと身体が震えた。ずきん、ずきんと頭が痛い。心臓も痛い。
本格的に体調が悪いのかもしれない、俺はそんなことを思いながら天井を仰ぎ見た。視界が輪郭を失っていた。
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