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田河秀一は観光バスを降りた。眼前に白く無機質な建物が二棟佇んでいる。その奥には残雪を白い筋のように残した富士山。周囲には色とりどりの緑を身にまとった木々があり、それらを隠れ蓑にして、鳥や蝉が思い思いの鳴き声を上げていた。
バスの右横には幌が付いた一台の中型トラックが停車している。運転席では青い作業着姿の男性がタバコをふかしているのが見える。
三十人余りの部員たちが集合したのを確認し。顧問の桑原が大口を開いて言った。
「いいか、あくまでも練習合宿だ。勘違いするなよ?」
桑原に対し、秀一を含む部員全員が一斉に「はい!」と返事をした。桑原はスポーツウォッチをチラリと見たのち「三十分後、練習開始。解散」と言い残し、建物に吸い込まれるように入っていった。部員たちは返事を繰り返し、まるで引き寄せられるかのようにトラックに向けて走り出した。
マリンバやティンパニといった大型の打楽器を運ぶのを手伝うと、秀一はトラックの荷台から大型の金管楽器――チューバという――を渾身の力で引き下ろし運んだ。ガラスの引き戸を通り白い建物の中に入ると、ネットリとまとわりつくような湿気が辺りを覆い尽くしていた。秀一は首に巻いたスポーツタオルで、にじみ出る汗をためらいなく拭った。
蟻のような行列を必死に追いかけながら、秀一は最後尾にいた。目の前には一学年上、三年生の小西がいる。整った角刈りにずんぐりとした身体の彼は、まるでティッシュ箱を持っているかのような軽やかさで、秀一と同じ型のチューバを運んでいる。
「田河。俺も力を尽くすから、田河もそうしてくれ」
小西が言った。田河は「はい。そうします」と、間髪を入れず歯切れ良く言った。小西は「頼むぞ」と後ろを向かずに言った。
行列は別れに別れた。ついに田河の所属する低音金管楽器――チューバとユーフォニアムという楽器で構成される――のメンバー四人だけが残った。田河、小西、ユーフォニアムの三年生女子で、パートリーダーの道上、同じく一年生女子だ。
やがて、道上を先頭とする列がピタリと止まった。数メートル先で、道上が取れかけたドアノブを慎重に開けている姿を秀一は見ていた。
四人がようやく入った部屋は、六畳ほどの洋間だった。窓に掛けられたクリーム色のカーテンが、所々に黒い染みを浮かばせている。カーテンの隙間から差す光は、舞い上がった細かなホコリをかすかに照らしている。
道上が電気をつけ、四人は準備を整えた。まもなく、道上が電子メトロノームのスイッチを入れた。ピッ、ピッ、と規則的な電子音が部屋一面に広がり始めた。
「五、六、七、八!」
道上の掛け声に続いて、四人は練習曲を吹き始めた。秀一はチューバを細身の身体で何とか支えながら、五線譜の音符を、忠実に音へと昇華させようと集中した。
一曲を吹き終え、チューバをホコリだらけの床に置いた秀一は、道上による指摘を聞く中、ふと気付いた。
閉ざされているはずの窓のカーテンが、ユラユラと波打っている。直後、空気がシュンと冷えていくのを秀一は感じ取った。そして――秀一は聞いた――漆黒の沼の底から聞こえてくるような、邪念と憎悪に満たされたような『声』を――。
秀一は鳥肌を立てて周りを見たが、景色は入室時と何ら変わっていない。
「田河君? どうしたの?」
道上が落ち着きをなくした秀一に気付いて歩み寄ってくる。秀一はすぐには言葉が出なかった。
「……何でもないです。すみません」
秀一は気のせいだと考え、瞬きを数回して意識をはっきりさせた。
「そう。なら、しっかり集中して」
「は、はい」
だが、返事をしたものの、秀一の鳥肌はすぐには収まらなかった。
道上のスマートフォンのアラームが鳴った。
「これで、パー練を終わりにします。合奏は三十分後です。じゃあ解散」
秀一は荒い呼吸を整えようと、両手で胸の辺りを押さえた。心臓がいたずらに脈打っているのを感じた。
「田河。大丈夫か?」
小西が椅子から立ち上がり、秀一に向かってそそくさと歩み寄ってきた。
「だ、大丈夫です。小西先輩、あの……」
「何だ?」
秀一は意を決した様子で言った。
「……先輩は、演奏中に変な『声』を聞きましたか?」
「変な『声』? 何の話だ?」
小西は眉をひそめ、秀一を見つめた。
「それじゃ……冷気を感じたり、窓が閉じてるのにカーテンが揺れていたのは見ましたか?」
秀一は半ば吐き出すかのように言った。
「田河、さっき何してたんだ?」
小西は少々まくし立てるように言った。秀一は言葉に詰まってしまった。小西は冷静さを取り戻したような口調で言った。
「……田河。これは遊びじゃないんだ。もっと集中してほしい」
「……は、はい。す、すみません」
秀一は謝るほかなかった。
そうだ――あれは全部気のせいだ――きっと忙しい毎日で疲れてるから、幻覚を見たんだ――秀一は無理矢理そう結論づけた。
「……飲み物買ってきます」
秀一は道上に一声掛けたのち、足早に洋間を出ていった。
階段を駆け足で降り、一階まで来たころには、秀一は落ち着きを取り戻していた。
北向きで陽の当たらない廊下を数十メートルほど進んでいくと、秀一は突き当たりに自販機の姿を確認した。
麦茶のペットボトルを開けようとして、秀一は――ふと気付いた。
左側に数メートルに渡って二人掛けのベンチが並んでいる。それらの一番奥に、やたら髪の長い女性と思われる人物が、秀一に背中を見せる形で座っている。
秀一はその人物を視界に含めるように奥の壁を見た。どこか頼りない照明に浮かび上がるかのように、その人物はやたら鮮明に見えた。
髪に隠れて衣服は確認できないが、秀一と面識がある人物ではないことはほぼ明らかだった。おそらく、別の団体の人だろう――秀一はそう思い、そのまま後ろを向いて立ち去ろうとした。
その時――軽い音が聞こえ、何かが秀一の足元にぶつかった。
秀一が足元を見ると、スーパーボール大の黒い球が、その場にあった。その球に手を触れた瞬間、ネバネバした感触が秀一の手にまとわりついた。
秀一は反射的に手を離した。ネバネバが糸を引くように伸びた。そして、また――床に何かが落ちる音が聞こえ――黒い球が秀一の足元めがけて転がってきた。
秀一が球の軌道を見ると――それはあの髪の長い人物からだった。直後――先ほどの『声』が、奥から聞こえてきた。――シネ――シネ――シネ――。
秀一は思わず身震いすると、相手に背中を向けて猛ダッシュで自販機コーナーから逃げ去った。
「何してたの? 合奏始まるから、急いで」
テニスコート一面程度の小さな体育室に行くと、道上が不満を漏らしながら、秀一のバッグを持っていた。秀一は「すみません」とだけ言ってバッグを受け取った。
体育室には、続々と部員が集まっていた。扇形の席が収束する場所に、縦横一メートルほどの踏み台が置かれている。
秀一の席は大窓のすぐ近くだった。窓の縁に寄ると、森の爽やかな空気を身にまとった風がソヨソヨと吹きつけているのがわかった。かき回されていた秀一の心中は少し落ち着いた。
全員が集まり、チューニング――音程合わせが一通り完了すると、桑原が堂々とした足取りで体育室に入り、台の上に上がって話し出した。
「いいか? 今年度こそ、東日本大会に行こう。それじゃ、木管から」
桑原はパートことにチューニングを確認していき、やがて金管の低音楽器の番が来た。
「せーのっ!」
桑原が体育室全体を揺らすかのような太い声を上げた。秀一はチューバに息を吹き込もうとするが、上手くできない。
「チューバだけ、せーのっ!」
小西が額に緊張の汗と思われるものを流していることにも、秀一は全く気付かない。
「田河だけ、せーのっ!」
桑原の表情が徐々に鬼のように豹変していく。それでも、秀一の脳内は不気味なほどに伸びきった髪の毛や、転がってきた黒い飴玉、それに『声』に汚染されていた。
「田河! お前やる気あるのか?」
桑原は指揮棒を下ろし、突き刺すような声と視線を秀一に向けた。秀一はそれで我に返り「は、はい!」と慌てて言った。
「なら行動で示せ。せーのっ!」
秀一は先ほどのことを出来る限り思い出さないように努めた。
「……じゃあ、全員で最初から」
秀一以外が桑原に意識を向ける中、秀一だけは気分をそらそうと、大窓の外をふと見つめた。
反対側の建物の窓には――さっきの『それ』が映っていた。髪の毛に覆われている身体は、秀一のほうを向いているのか、それとも違うのか、秀一には見当がつかない。
秀一の意識は桑原に向き直ったが、視線はまるで『それ』に吸い込まれたかのように離れない。
直後、髪の毛のシャワーから何かが覗いた。それは遠目でもわかるくらいにやせ細っていた。とても人間のものとは思えない、生気を失った白い手。
両手はそのまま窓ガラスにへばりついた。顔に当たる部分は確認できないが、意識が自分に向けられていることを秀一は容易に察した。
「田河! おい! 田河!」
桑原の怒鳴り声も、秀一の耳には届かない。
直後、誰かが秀一の肩を叩いた。小西だった。秀一はようやく桑原の顔を見た。それは今にも破裂寸前のように、真っ赤に染まっている。
「お前……終わったら特訓だ。二時間。もう一回、最初から」
桑原の声のトーンは一気に下がったが、顔には怒りがこみ上げていることなど、秀一には簡単にわかった。
「はい!」
秀一を除く全員が返事をした。秀一だけが、再び窓の外をチラリと見た。
すでに『それ』は、いなくなっていた。
「田河。来い」
譜面を畳もうとしている秀一に対し、桑原が静かに言った。
「はい」
秀一は短く返事をし、そそくさと歩きだす桑原の後に続いた。
秀一が入ったのは、パート練習で使用した部屋とさほど変わらない広さの部屋だった。ただ、あらゆる道具が雑多に置かれてあり、秀一には狭苦しく感じられた。
「ここは窓がない。集中して吹け」
桑原の鋭い視線に、秀一は演奏を始めるほかなかった。必死になって、譜面の情報を頭に入れようとする――が、秀一は間もなく、吹くのを止めた。
「何をやってる! 良いって言うまで吹け!」
秀一の身体が動かない。代わりに震える声が言った。
「う、後ろに……な、何かが……い、いるんです……」
「何? いるわけないだろ」
秀一は何も言えなかった。背中に――ザラザラとした触感が――深夜の墓場のような冷たさをまとって――這っている。それは徐々に、上へ、上へと向かっていく。
「田河、もういい」
桑原は静かにそう言うと、立ち上がり、ドアのほうに向かった。
「ま、待って……ひ、一人にしないで……」
秀一は消え入るような声で言った。ザラリとした感触と死んだような冷気が首筋まで来ている。
桑原は「ああ?」と秀一を睨み付けた。
「俺は忙しいんだ! しっかり練習しとけ!」
そして桑原は出て行ってしまった。直後、唯一の明かりがまるで何者かの意志によるかのように消えた。闇が秀一を覆った。
秀一は上がる息を必死で押さえながら、手探りでスマートフォンをバッグから取り出し、ライト機能をオンにして周囲を照らした。そして――硬直した。
イタズラに伸ばされた黒髪は左右になぎ払われ、骨のように白い顔が覗いている。目があるはずのそこには、吸い込まれそうな闇が広がり、生気を失った唇には紅色の液体が所々付着している。
その時、秀一は声を聞いた。――シネ――シネ――シネ――。それらは秀一の脳内で反響するかのようだった。
秀一はそのまま動けなかった。怪物がゆっくりと間合いを詰めてくる。この世のものとは思えない形相が秀一に迫ってくる。秀一は声すら出せなかった。やがて秀一は冷たい感触を肌に感じた。すると、怪物の顔が徐々に揺らぎ始めたのち――ついには秀一の視界はブラックアウトした――。
秀一は身体が妙に軽いのを感じた。恐る恐る目を開いた。枯れ木とドンヨリとした曇り空が見える。
秀一は起き上がった――いや――何かの力によって起こされたといったほうが正しいかもしれない――手に腐葉土が付着している――そこで秀一は気付いた。
それは秀一の手ではなかった。乳白色のスラッとした長い指。
秀一は腕に視線を移した。男子中学生にしてはか細すぎるその腕に、毛は一本も生えていない。
くまなく全身を見た。雪のように白いけさ衣を身にまとっている。黒い髪の毛は腰の辺りまでストレートに伸びている。
秀一の足が勝手に動き出した。数十歩進むと、鏡面のような水たまりの前で足が止まった。
そこに映っていたのは、色白で細々とした輪郭の、十代後半から二十代くらいの女性だった。そこで秀一は察した。これは『それ』の記憶なのでは、と。
突如、視界が真っ暗になり、秀一の視界はメリーゴーラウンドのようにかき回された。
再び視界が開けた。どこかの家屋の一室のようだ。畳敷きのざっと八畳ほどの部屋。
秀一の目の前にはお盆が置かれており。その上には、黒い球が山のように積み重ねられている。
「あんたの大好きな黒飴作ったから、好きなだけお食べ」
障子の向こう側から、年配の女性らしき、凪のように穏やかな声が聞こえた。すると、秀一の、いや女性の腕はひとりでに黒飴に伸ばされ――再び視界が闇に閉ざされた。
次に視界が開けると、数人の若い男女が女性を取り囲んでいた。女性の手元には鍋があり、その八分目程度まで黒飴が収まっている。
「俺にくれ」
「私にも」
「あたしにもちょうだい」
取り囲む男女の声は、女性に対して好意的にしか聞こえなかった。女性の表情筋がひっきりなしに動く感覚は、秀一にも伝わってきた。
また視界が暗転した。次も似たような光景だったが、男女たちの表情に敵意がこもっていることは、明らかだった。
「人殺し」
「お前を許さない」
「計画してたんでしょ。毒を入れるって」
一人の短髪の女性が右手を掲げて言った。その手には――黒い飴玉が一つ。
「違う。私じゃない。私は何もしてない」
秀一の意志が入り込む余地もなく、言葉が飛び出した。短髪の女性の顔が激しく歪んだ。
「この嘘つきが!」
直後、短髪の女性は右手を女性の口元に押しつけた。ギュウギュウと激しく押しつける力によって、黒い飴玉は女性の口に侵入した。数秒後、口内を焼き焦がすかのような痛みが走った。視界が渦を巻くように乱れていき、徐々に怪物と薄明かりに照らされた洋間が見えてくる。
だが、元の景色が完全に見える前に――秀一は何も感じなくなった。
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