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こんな風に波音を聞いていると、いつかの手紙を思い出す。
手紙といっても、便箋に書いて切手を貼った封筒で送るような畏まったものではなく、たった一言、メモ用紙みたいな小さな紙に書き殴ったような、簡素な文字。
それでもあの時わたしは、その手紙ともいえないそれに、確かに救われていたのだ。
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あれは、中学二年の夏の終わり。
じりじりと迫り来る進路の気配や先輩後輩に挟まれた部活、係の仕事や委員会と内申点、よく知らないクラスメイトの恋愛の矢印や複雑な友達関係……なんて、今からすると随分狭い世界の中。
それでも自分にとっては、とてもじゃないけれど抱えきれない程の、たくさんの悩みが犇めいて、今立っている足場さえ覚束なかった頃。
「はあ……」
全ての悩みや背負った重さを捨て去って、どこか見知らぬ遠くの国に……なんて。放課後はしょっちゅう寄り道しては海辺に赴いて、遠く広がる波間を眺めて現実逃避をしていた。
白く細かい砂が熱いくらいのぬくもりを帯びて、裸足の指の隙間を通る感触。
昼間凶悪なまでに照り付ける太陽が、海にゆっくりと飲み込まれていく光景。
目を凝らしてようやく見付けられる、空と海の境目の青の深さ。
波のさざめきを耳にして、カモメの声を辿るように見上げた先は、いつも美しい世界が広がっている。
けれどそんな広大な自然を前に、自分の悩みをちっぽけだなんて思うことも出来ず、『それはそれ』と感じてしまうような性格だったわたしは、せっかくの海を前にしても陰鬱な顔をして溜め息を吐いてばかりだった。
それでも、そんなわたしだからこそ、あの日も俯きがちに歩く浜辺で、打ち上げられた『手紙入りの小瓶』という、まさに物語の冒頭めいた未知の物との出会いを果たしたのだ。
「何これ……!」
寄せては返す波打ち際、一瞬ごみにも見えた手の平サイズの小瓶は夕陽を受けて煌めいていて、わたしは指先を濡らして拾い上げる。
波に揉まれてほんのり曇った硝子の中には、小さな白い紙が丸めて入れられていた。
非日常の気配に、柄にもなくドキドキする。
何かの機密文書、秘密の暗号、お宝の地図。
その時ばかりは日頃の悩みなど忘れ、いろんな想像をしては期待に胸を膨らませた。
辺りを見回して、人気がないことを確認したわたしは、深呼吸した後、ペットボトルのような捻るタイプの蓋を開けて、恐る恐る中身を取り出す。
心臓の音と波音が不協和音のように重なった。
しっかりと蓋はされていたけれど、少し水が入ったのか、その紙はふやけていた。わたしはそれを破いてしまわぬよう、期待と緊張に僅かに震える指先で慎重に広げる。
「……」
けれど広げた真っ白な紙の中心、書かれていたのは期待した宝の地図でも何かの秘密でもなく。
たった一言『ドキドキした?』という文字だった。
「……、は……」
一瞬意味がわからずに呆然として、それから浮かんできたのは、勝手な期待を裏切られた怒りと、下らない悪戯への呆れと、現実を実感した諦めと、誤魔化しようもない残念な気持ち。
いろんな気持ちが湿った紙から溢れ出して、最後には脱力しながら、つい笑みが溢れる。
「……あははっ。うん、ドキドキした」
ほんの一瞬のときめきは、確かに本物だった。
ちっぽけな、どこにでもあるような小瓶なのに、わたしの悩みも苦しみも、手にした瞬間全部忘れてしまえる程だった。
もし本当に宝の地図でも書いてあったなら、わたしは探しに行けただろうか?
もし本当に暗号が記されていたとして、わたしには解けただろうか?
否。いざ本物の機会が巡って来た時に、きっと今のわたしでは何も出来ない。
そう考えた時、日常の些細な問題に躓いているのが、急に馬鹿らしく思えた。
だって、宝の地図を横取りするような海賊も、秘密を知られたからとわたしを亡き者にしようとする組織も、わたしの目の前の世界には存在しないのだ。だったら怖いものなしだろう。
「よし……帰ろ!」
その日の帰り道は、久しぶりに濃い影の滲む地面ではなく、綺麗な夕焼け空を見て歩いた。
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