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第10話 婚約発表
そのとき、
「せっかくのお誘いですが、お断りさせて頂きます、ステアータさん。私には、婚約者がいますので」
ジェイドの発言に、息を飲んだのはパルナ。
先ほどまで、うっとりとジェイドを見つめていた瞳が、恐ろしいほど鋭い目つきへと変わった。まるで素敵な夢を見ていたのに、突然厳しい現実を突きつけられたかのように。
いつもの優しい彼女からは想像もつかない変化に、寒気が走った。
パルナに話しかけたくても、喉の奥がキュッと詰まって言葉が出てこない。いや、今彼女に話しかけていいのかすら、判断がつかない。
こんなこと、初めてだ。
だけど、戸惑って動けずにいる私の左肩に温かな重さが乗ったかと思うと、体が突然グイッと引き寄せられた。
私の左肩の上に乗っている手の持ち主は、もちろんジェイド。彼の手が私の体をさらも引き寄せたせいで、私たちの心の距離を示すかのようにあった隙間が、ピッタリとくっついてしまった。
ぶわっと顔に熱が上がる私の隣で、ジェイドの淡々とした声が響いた。
「コーラル・イルミナが、私の婚約者です」
ジェイドを追いかけていた女性たちの視線が、一斉に私に注がれる。
めっちゃ怖い。
だけど一番に表情を緩め、大きく息を吐き出したのは、意外にもステアータだった。
「あら、そうなの。さすが家庭円満の女神様だこと。もう相手の心は完全に掌握済みなのね。まあ私は、相手がいる男性には手を出さない主義だから。コーラルさん、あなたの婚約者だと知らずに声をかけて、申し訳なかったわね」
「あ、え、いいえ……」
「それじゃ、お幸せに」
すっかり態度を変えたステアータは、ヒラヒラと手を振ると、すんなり引き下がっていった。意外と潔い。
ステアータの態度に、他の女性たちも思うところがあったのだろうか。
「ご、ごめんなさい、コーラル様……知らなくて……」
「ジェイド様も、申し訳ありませんでした……」
「あはは……さ、さあ、お仕事いかなくちゃ!」
私やジェイドに謝る者、今までの言動をなかったことにした者など、様々な反応を見せながらこの場を去っていき、やがて廊下は、いつもの静けさを取り戻した。
ホッと脱力したとき、肩に乗ったままな不自然な重みに気付く。
私はジェイドの手をペイッと振り払うと、彼に向き直った。
「こ、婚約の件、何で皆の前で言っちゃったの⁉」
「問題ありますか? いずれ伝えることなのに」
淡々とした口調で質問で返され、私のこめかみがピキピキと引き攣った。
こいつ、私が何で怒っているか全く分かっていない!
確かに、ジェイドが私に偽装婚約を申し出た理由は、降りかかってくる結婚話を断って仕事に集中したいからだ。だからこそ、この場で発表したことのは分からなくもないけど、私に相談一つなく発表するのは、いかがなものだろうか⁉
そう反論しようとしたとき、
「あのっ、コーラル様。ジェイド様と婚約なさっているのは、本当なのですか?」
パルナの問いかけに、私はハッと息を止めた。
恐る恐る彼女に視線を向けると、パルナは細い眉毛を寄せた困惑顔をしていた。いつも私に対して向ける、困ったときの表情だ。
心の中でホッとしながら、私は彼女に謝罪した。
「ご、ごめんなさい、パルナ。こんな形じゃなくて、ちゃんと準備が整ってから伝えようと思って。だって、フレイズローザ様にすらまだお伝え出来てないのよ?」
「私はもうすでに、アクレイズ様にお伝えしていますけどね」
「ちょっ、ちょっと待って! アクレイズ様に伝えちゃったの⁉」
「もちろん。私の上司ですから」
早すぎない⁉
そ、それに、こんなに早く皆に偽装婚約のことを伝えてしまったら、仮にジェイドにいい人が現れたとき、取り返しがつかなくならない⁉
そこまでして結婚したくないの⁉
慌てまくる私とは正反対に、ジェイドの表情は冷静そのもの。
彼の手が再び私の肩を抱き、パルナに向き直った。
「パルナ・ドニアート。いつもコーラルを助けてくださり、ありがとうございます。こんな彼女ですが、どうかこれからも支えてやってください」
「ちょっと! こんな彼女のこんなって何を指しているのよ‼」
「ここで言ってもいいんですか?」
「い、いや……それは……」
ジェイドが本気の目をしてる――‼
何を言うつもり?
ま、まさかあのこと? いや、あのことかも――
「ふふっ、お二人はとても仲がよろしいのですね」
少し笑いを含んだパルナの声が、私の意識を現実へと引き戻した。
彼女の瞳がジェイドを捉える。
その顔には、私が知っている優しい笑みが浮かんでいた。
「私こそ、いつもコーラル様には様々なことを教えて頂き、感謝しております。これからも、コーラル様に懸命にお仕えいたします。ジェイド様、今後ともどうぞよろしくお願いいたします」
「はい。では私は失礼いたします」
彼がパルナに軽く会釈した瞬間、私の肩がフッと軽くなった。ジェイドが私たちの横を通り抜け、立ち去ったのだ。
何だか急に肩が寒くなった気がする。
不思議に思いながら、ジェイドの背中が廊下の角を曲がって消えたのを見届けた瞬間、私は大切なことを思いだした。
「会議行かないと‼ ま、まずいわ、パルナ、資料をちょうだい!」
「は、はい、どうぞこちらです! コーラル様、いってらっしゃいませ」
少し慌てた様子で差し出された資料を受け取り、パルナに御礼を言うと、急いでフレイムローザ様が待つ会議室へ向かった。
後ろで深くお辞儀をしながら見送ってくれるパルナは、いつもの彼女だ。
先ほどの彼女の豹変は見間違いだったのでは、足早に歩きながら考える。
ただ、ジェイドを見つめる様子があまりにも熱が入っていたから、その落差があって、怖い表情に見えただけかもしれない。
ほら、いつも優しい人が怒ると、普通よりも怖く感じるとかあるじゃない。
だけど、
「……えっ?」
手にした資料の表面に違和感を覚え、足を止める。
恐る恐る資料が入っている封筒を見ると、封筒の左右の端に皺ができていた。
まるで、封筒を渡すときに手に力が入り、紙がくしゃっとなってしまったかのような――
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