第5話 元彼の脅し

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第5話 元彼の脅し

 フレイズローザ様の執務室から退室し、自分の執務室に戻ろうと歩き出した私の頭の中では、先ほど執務室内で交わされた会話や光景がリピートされていた。    自然と歩みがゆっくりとなり、背中が丸くなる。  トボトボ歩くって、まさに今の私の状況のことを言うんじゃないだろうか。  さらに惨めな気持ちになり、せめて背中だけでもシャキッとさせようとしたとき、  「お、コーラルじゃないか」  後ろから聞こえてきた声に、心臓が大きく跳ねた。  以前の私なら、トキメキという意味で、心臓が大きく跳ねていただろう。  でも今は違う。  私は、歩みを止めなかった。俯き、むしろ早足で立ち去ろうとした。  だけど後ろから走ってくる足音が聞こえたかと思うと、黒い影が私の前に回り込んだ。声の主に通行を妨害され、さすがの私も足を止めざるを得なかった。  ゆっくり視線を上に向けると、金髪の男性が私を見下ろしていた。  勝利を司る男神ディラック・ヘイスだ。  勝利の男神に相応しく、非常に華やかな容貌をしている。彫りの深く整った容貌は、まるで美術品のような近寄りがたさがあるけれど、常に爽やかな笑顔を浮かべていることと、誰に対しても気さくな態度のお陰で、よく女性たちに取り囲まれている。  相変わらず、背中からライトを当てているんじゃないかと思えるほどの、キラキラオーラだ。  以前は私に対し、優しげに細められてた水色の大きな瞳からは、まるで格下を見るような意地悪さが感じられた。  私が彼をよけようとしても、サッと私の前に移動して、通行の邪魔をしてくる。苛々した私は、とうとう声を出してしまった。 「ディラック、退いて」 「冷たいな、コーラル。元彼だった俺にその言い草はなんだよ。相変わらず、可愛げがないな、お前は」  元彼という、今の私にとって最低最悪な単語を軽々しく口にする彼にカチンときて、声を荒げてしまった。   「そうね。どうせ私は可愛げなんてないわよ。今までもこれからも仕事が恋人。あなたはせいぜい、浮気相手とお幸せに!」 「はははっ、まあそんなカッカするなよ。ちょっとさ、お前に頼みたいことがあるんだけど。ほら、今俺が管理している世界の情報、明日までにまとめらんないか? 付き合ってたときみたいに、パパッとさ」 「はぁっ⁉ 何で私が‼」  あんな別れ方をしたというのに、まだ気軽に頼ってくる元彼に呆れてしまった。  付き合っていたときは、少しでも彼の負担を軽くするために、色々と仕事を手伝ったりはしていた。けれど、まさか別れた後にも頼ってくるとは。  どれだけ図々しいんだろう。   この人の心、鋼でできているのかな……  それにあなたがパパッとって言ってるその仕事、結構複雑で大変だったのよ⁉ 簡単に言ってくれちゃって……  私はこれ見よがしに大きくため息をつくと、腕を組みながら睨みつけた。 「お断りするわ。私があなたに力を貸す理由がないもの」 「そりゃないだろ? 一時は愛し合った仲だろ?」 「それをぶち壊したのはどこの誰⁉ そんなにも仕事が大変なら、私じゃなくて、今のあなたのお相手に頼みなさいよ!」 「いやいや、そんなことを今カノに頼んで、仕事が出来ない男だって思われて嫌われたらどうするんだよ?」 「そんなの知らないわよ! とにかく、私は金輪際協力しないからね!」 「ふーん……」  ディラックは、獣のうなり声のような低い声を出すと、ニヤリと口元を緩めた。  もの凄く嫌な予感がする…… 「そういやお前、家庭円満の女神の座を降ろされようとしているんだってな?」  背中に冷たい汗が伝った。  私の気持ちが思いっきり顔に出てしまったのだろう。ディラックが私の顔を覗き込みながら意地悪く笑う。 「新設される予定の【ざまぁの女神】なんて、お前のキツい性格にピッタリじゃないか」 「だ、誰からそんな話を聞いたの⁉」 「俺、結構顔が広いから、色んな情報が入ってくるんだよ。その様子じゃ本当のようだな。で……いいのか? 家庭円満の女神であるお前が捨てられたって公になったら、皆どう思うだろうな?」 「でもそういうあなただって、皆から白い目で見られるのよ⁉ だってあなたが浮気をしたんだから!」 「だが、受けるダメージはお前の方が強いはずだ。イルミナ家は長らく家庭円満の女神を継いできたからな。さぞイルミナ家の家庭円満の女神たちは無念だろうなぁ」 「……最低」  そう言い返すことしか出来なかった。    ディラックは私を脅している。  このままだと、フレイズローザ様が恐れていたこと――私が彼に捨てられたことで、家庭円満の女神としての資質が問われること――が起こってしまう。  この男の言う通り、私の代で、家庭円満の女神が途切れてしまう――  ディラックの手が私の肩に置かれた。付き合っていた時には幸福感を感じていた彼の温もりが、今は気持ち悪くて仕方がない。 「なら……どうしたらいいのか、分かっているよな?」  耳の奥に吹き込まれる囁き。  全身の毛が逆立ち、額からは変な汗が噴き出した。  このままだと私、ディラックの言いなりになってしまう。今回の仕事を引き受けたとしても、今後も同じようなことが必ずある。  徹底的に利用されてしまう。  こんな男の言いなりになるなんて、絶対に嫌! かといって、ざまぁの女神を引き受けるわけにもいかない。  一体どうすれば――  その時、 「コーラル。そこで何をしているのですか?」  昔はたくさん聞いていた――そして先ほどフレイズローザ様の部屋で何年ぶりに聞いた声が、廊下に響き渡った。  次の瞬間、 「いでででっ! な、何だよ、お前は‼」  ディラックの顔が苦痛で歪んだ。  黒い影が私の体を横切ったかと思うと、私の肩に置かれていたディラックの手首を掴み上げたのだ。  彼の手首を掴んでいる手の出所に視線を向けると、 「ジェイド⁉」  黒いローブを身に纏い、頭にはフードを被った銀縁眼鏡の男性――知性の男神ジェイド・ノアがいた。  さっきからディラックが自分の手首を掴んでいるジェイドの手を、掴まれていない方の手でどかそうとしているけれど、ピクリとも動かない。  ジェイドはそんな彼を表情一つ変えることなく見つめながらディラックの手首を掴んで私の肩から引き離すと、ようやくディラックの手首を解放した。  手首を掴まれたのが痛かったのか、ディラックはすぐさま掴まれた手首をさすると、何もなっていないかを確認していた。  そしてホッとした表情をすると、すぐさまジェイドを睨みつけた。 「お、お前は一体誰だ!」 「まずは、私の名前はジェイド・ノア。知性を司る男神として、水の最高神アクレイズ様に仕えております。僻地に赴任しておりましたが、本日より中央に戻ってきましたので、皆さまにご挨拶にまわっております。どうぞよろしくお願いいたします、ディラック・ヘイスさん」  そう言ってジェイドはディラックに右手を差し出した。しかしディラックは差し出された手を睨みつけるだけで、決して握ろうとはしなかった。まあ、当たり前だろうけど。  握手が拒絶されたジェイドに戸惑いはなく、何事もなかったように右手を戻した。 「で、その田舎から戻ってきた知性担当が、一体俺たちに何の用だ? これは俺とコーラルの問題だ! 第三者のお前には関係ないだろ」  言い終わるやいなや、ディラックは再び私に向かって手を伸ばした。多分、別の場所で話の続きをするつもりなのだろう。  迫ってくる手に、恐怖で体が固まってしまう。  しかし、ディラックの手が私を掴むことはなかった。代わりに、鼓膜に突き刺さるような、パンッという何かがぶつかる音が響く、  ジェイドが、私に伸ばされた手を払ったのだ。  そしてまるで私を背中で守るようにディラックと私の間に入ると、淡々とした声色で耳を疑う発言をした。 「関係ないわけがありません、ディラックさん。彼女は――コーラルは私の婚約者なのですから」
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