第9話 パルナ・ドニアート

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第9話 パルナ・ドニアート

 衝撃的な告白後、ジェイドは実家に用事があると言って出かけていった。遅くなるため、今日はノア家(実家)に泊まるらしい。  本当に婚約したのなら、引っ越し当日ぐらい二人でゆっくりしたい! と喧嘩になるかもだが、私たちは本当に付き合っているわけじゃない。  なので、私は彼の申し出に二つ返事で了承した。  こうして引っ越し初日は、人の目を気にすることなくのびのびと過ごした。  次の日。  私は新居から職場へと向かった。 「おはよう、パルナ」 「おはようございます、コーラル様」  執務室に入り、先に来ていたパルナに挨拶をすると、彼女はフワッと優しく微笑みながら挨拶を返してくれた。守ってあげたくなるような儚さと、心が包まれるような温かさを兼ね揃えた微笑みに、胸の奥が苦しくなる。  理由は痛いほど分かっている。  パルナの方が家庭円満の女神に相応しいと、最高神たちに言われたことを思いだしたから。  パルナはとても良い子だ。  確か十八歳のとき、見習いとして私の下にやってきた。当時からとても優秀で、若干二十一歳で、女神一等補佐官となり、今も私を支えてくれている。  人当たりも柔らかだし、相手の気持ちに寄り添える。性格だけでなく見た目もとても可愛らしい。  長い金髪は毎日オシャレに巻かれ、薄茶色の瞳の周りには、まるで花弁が開いたかのように金色の睫毛が縁取っている。頬っぺたは白く、思わず突きたくなってしまうような柔らかさがあるのに、顎はシャープな輪郭をしている。  重たい物を持たせようものなら、お願いしたこちらが悪いと思ってしまうほど、服から出ている手足はほっそりとしている。  庇護欲を掻き立てるとはこのことだろう。  とにかく、可憐なパルナは、男神たちや異性の天界人たちに人気がある。  少なくとも、恋人に浮気されて捨てられたからと自暴自棄になり、やり場のない気持ちを、ざまぁの手助けで晴らしたりはしないだろう。  良い子だからこそ、彼女の優秀さに嫉妬している自分がいる。  私、いつからこんなに心の狭い女神になってしまったんだろう。  嫌、だな…… 「コーラル様。今日は会議がありましたよね。もう出なければいけないのではないでしょうか?」 「あ、そうだったわね。お願いしていた資料は作ってくれている? あと、パルナはこれから一等補佐官会議があるのよね?」 「はい。途中までご一緒いたしますので、資料は私がお持ちします」 「ありがとう」  ……良い子過ぎる。  心の中でパルナに手を合わせると、私たちは執務室を出た。  たわいもない会話をしながら廊下を歩いていると、廊下の先から、女性たちの騒がしい声が聞こえてきた。黄色い歓声と言った方がいいだろう。  この状況、知ってる。以前にも遭遇したことがある。  女神や女性天界人たちが、勝利の男神であるディラックを見つけて騒いでいたときと同じだ。  彼がいるの?  声が近付いてくるに連れて、私の緊張感が高まり、自然と歩みが遅くなっていく。  脳裏に、ディラックに脅された光景が過った。  あのときはジェイドのお陰で助かったけれど、ジェイドがいない今、ディラックが約束を守る保証はない。  もし前みたいに脅されたら―……  周囲にいる女神や天界人たちの前で、私たちのことをバラされたら……  そう思うと、恐怖で心臓が鷲掴みにされる。  前髪で隠れている額に、ブワッと汗が噴き出す。  心に浮かんだ人物の名が口を衝いた。 「ジェイド……」 「コーラルさん?」  すっかり聞き慣れた声が耳の中に入ってきた瞬間、私は何かにぶつかった。  ゆっくり歩いていたはずなのに、私の体は跳ね返され、体勢を崩してしまう。後ろにひっくり返りそうになるところ、間一髪、相手の手が私の背中を支えたことで、倒れることは免れた。  ぶつかった相手の手のぬくもりを背中に感じながら顔をあげた瞬間、私の頭の中は大量の疑問符で一杯になった。  ……誰、この人?  目の前にいたのは、深い青色の髪をもつ、端正な顔つきの男性だった。深い青色の髪は短く、まとまりきらなかった一部が頬に沿うように流れているのが、何だか色っぽい。  これだけの男性なら、周囲の女神や女性天界人たちが放っておかないだろう。それほど、彼を見る物の目を惹きつける魅力がある。  とはいっても、ディラックのようなキラキラしたものではなく、静かな夜を連想させるような穏やかさに近い。彼が纏う雰囲気が、ベストとシャツという身なりにピッタリだ。  あと何と言っても、銀縁眼鏡がとても似合……あれ?  銀縁眼鏡に青い瞳。 「コーラルさん。どうしましたか? 私の顔を見ながら口を開けて」  初対面なはずの相手が、とても良く知っている声色で私の名を呼ぶ。  私はそのまま目の前の男性を見つめ、見間違いではないかと目を眇め、本当に本当なのかと目を凝らした後、目玉が零れんばかりに瞳を見開き、彼から距離をとった。 「も、もしかして……じ、ジェイド⁉」 「もしかしなくても、そうですが」  この淡々とした声と話し方。  間違いない。  ジェイド(演技)だ―――――‼  驚きの声が出てしまったけれど、それ以上の歓声を周囲の女性たちがあげたため、気付かれずにはすんだ。 「ジェイド様と仰るんですね!」 「ノア家といえば確か、代々知性の男神を受け継がれている由緒正しい家系だったはず」 「僻地から中央に戻られたそうですね! これからもお会い出来るようで嬉しいです!」  彼を取り囲み、キャッキャする女性たち。中には、昨日彼とすれ違った者だっている。  女性たちの手のひら返しに呆れつつも、何故か心の奥底がもにゃっとした。  一人の女神がジェイドに近付いた。  確か、死の最高神ゼーレ様に仕えている誘惑の女神ステアータだ。もし私がざまぁの女神になれば同僚になる。  誘惑の名にふさわしく、大きく開いた首元を見せながら、妖艶な笑みを浮かべながらジェイドの耳元で囁く。  何を言っているのかは分からないけれど、何となく想像はついた。  ステアータは恋多き女神なので、気に入った男神や男性天界人には片っ端から声をかけることで有名だ。  心の底にあったもにゃっが、のたうち回り始めた。  幼馴染みであるジェイドが誘われている光景は見たくない。  何だか……昔の楽しい思い出が、急に色褪せてしまうような気がして――  会議室には、別の道からでも行ける。  隣にいるパルナに声をかけようと彼女を見た瞬間、私は喉から出そうになっていた言葉を喉の奥に引っ込めてしまった。  パルナが瞳を見開き、ジェイドを見つめていたからだ。  陶器のように滑らかでフワフワな頬には朱がさし、薄茶色の瞳が蕩け落ちんばかりに緩んでいる。  まるで、彼の姿が見えなくなるのを惜しむかのように、瞬きもゆっくりだ。  真面目な彼女が、食い入るようにジェイドを見つめている。  他の女性たちのように、彼を取り囲むことはしていないが、この場で一番熱をもって彼を見ているのは、間違いなくパルナだろう。  彼女の艶やかな唇が、ゆっくり動く。  声はしなかったが、何と言ったのかは分かった。  ――すてき、と。
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