第1話 ほたるの決意

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「もちろん今のレベルでお店がやれるとまでは思わないよ。だから、もう次の勤め先もパン屋に決めてるの。今の職場の退職日も決まってるから」 助手席のドアを閉め、帯の締め付けに唸りながらシートベルトを締めた。   父がエンジンをかける。 勢いよく吹き出した暖房の鼻を衝く風が私の顔面に直撃して、慌てて風向きを指先で調節した。 「商店街にくじらベーカリーがあるでしょ」 「……鯨ばあさんに弟子入りするのか」   途端に声が不機嫌になる。 クラクションの部分を軽く人差し指でノックするのは、やはり何か文句のひとつでもあっての事だろう。 「そう。私がパン好きになったのは、鯨さんの作るパンからだもん。昔から師匠だよ」   父の中華料理屋の三軒隣にある「くじらベーカリー」は、名の通り可愛いくじらの絵がマークとなった老舗のパン屋だ。 店主は鯨マサエさんという女性で、数年前に他界した旦那さんが始めたパン屋を、今もひとりで続けているお婆さんだ。 父とは昔から馬が合わないものの、彼女の作るパンは認めている。 そこは料理人同士。性格の不一致はさておき、味はリスペクトし合う仲だ。 鯨さんもまた、父の店の常連だった。    
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