第3話 忍陵町商店街「旅するアヒルパン」

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トレイとトングを手に、パンが並ぶ棚をじっくりと見ていく。 パンを見ているのに、なぜか背後のレジカウンターに立つ私の心臓が暴れ出す。 くじらベーカリーでバイトしていた時よりも動揺が酷い。 あの店では鯨さんがいたから平静を保っていられたのだろう。 いま、この店には私と風早さんとふたりだ。 ふ、た、り、き、り。 脳内に文字が浮かび上がる。顔から火が出そう。 「って、違う違う!」 しまった。うっかり心の声が出てしまった。 「どうかしました?」 「い、いえ何でも、あははっ」 落ち着け私。風早さんには明日香ちゃんがいるのだ。 子持ち。つまりは既婚者っ。 ダメダメ。いくらなんでも不貞行為は許されない。 私も嫌だし、そもそもそれを良しとする風早さんであって欲しくない。 「お願いします」   レジにやって来た風早さんからトレイを受け取り、ハッとした。 「ラスク、そちらにありますよ」   トレイにはウインナーロールとクロワッサンがひとつずつだ。 風早さんは一瞬きょとんとしながら私が指し示す棚を振り返り、あぁ、と困ったようにこちらに向き直った。 「僕、これから仕事に行くので。自分のお昼を買いに来たんです」 「あぁっ、そうですよね。朝ですもん。お仕事ですよね」   とんだ早とちり。 きっと私の頭の中はそれだけパニック状態なのだ。 「この前はすみませんでした。明日香が失礼な態度をとってしまって」 「いえ、そんな。気にしてませんから」   本当はめちゃくちゃ気にしてますけど……。   そんな事は心の中で食い止めて、どうぞ、と商品の入った袋を手渡した。
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