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——私のことは、一度も言及されていなかった。
旦那様の手記は全く私宛に書かれたものなどではなかった。
これは恋文だ。クローディア。そんな名前の「影」の女に宛てた、旦那様の最初で最後の愛の告白だった。
きっと、随分と衝撃的な内容だったのだろう。私が知らなかった「影」の正体や、その正本の存在が惜しげもなく綴られていた。
でも、もはやそんなことはどうでも良かった。
初めての感情だ。今まで誰かを羨むことなんてなかったから。「影」に生まれてから、全てを諦めて生きてきたから。
震える手が、勝手に冊子を握りつぶした。旦那様の、唯一の忘形見、だったはずなのに。今ではこの紙の纏まりが、憎たらしくて仕方がない。恨めしい。
ちかちかとする視線の先に、真っ黒な手先が映る。黒いインクで塗り潰したような、真っ黒な手。あの、旦那様の激情を呼び覚ました、クローディアと同じ。
嗚呼、旦那様。だから私なんかを拾ってくださったのですか。ふらっと現れたどこの誰とも知らぬ「影」の女を、おそばに置いてくださったのですか。
私の真っ黒な頬を撫でる、あの角張った熱い掌を思い出す。この上なく愛おしいと言うように、細められたあの目の形も。旦那様のあの目は、私の暗闇に呑み込まれたような顔の輪郭を見て、何を描いていたのだろうか。顔のない私の姿に、どんな女の姿を重ねていたのだろうか。
やはり、同じく顔のなかった、その女の姿だろうか。クローディアという名の、その「影」の。
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