クローディアに捧ぐ

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 ***    この手記は、ある(ひと)に捧ぐものです。    いや、(ひと)と言うのは間違えかもしれません。彼女は人間ではありません。「影」と呼ばれる生き物なのです。人間が長らく虐げてきた、あの「影」です。  彼女は人間ではなかった。しかし、私と彼女の関係は、そこいらの人間同士よりも深く、濃密なものでした。  私と彼女の関係を語るには、私の出生まで遡らればなりません。長くなるかもしれませんが、お付き合い願います。これは、私の最後の告白なのです。  私は大陸の最西端にて、その地で最も栄えた家の次男として生を受けました。大陸の中心部と比べると何もない田舎でしたが、端くれとはいえ豪族だった家に生を受け、私は幼い頃から望めばなんでも買い与えられてきました。愚かなことに、全てが我が物になるような気にさえなっていたのです。  私は次男ということで、後継の責もなく、ある程度は自由にすることを許されていました。もちろん、家の後継となる兄の助けとなれるように、勉学や剣術など、最低限は教わっていましたが。  しかし、それも午前だけで大抵終わり、私は午後へ続く授業の準備をする兄を尻目に、街や屋敷の裏に広がる森——なにせ田舎だったものですから——へ、遊びに繰り出すのが常でありました。  彼女に出会ったのは、そんな折でした。おそらく、十もいかない歳の頃だったように思います。  それは、暑い初夏の日でした。肌を焼く陽の感覚を久々に感じ、私は訪れる夏の気配にうんざりとしていました。私はその頃、夏が嫌いだったのです。他人の頬を伝う塩くさい液体が、なぜか酷く汚らしく感じていたからです。  私は水浴びをしようと思いつき、午前の授業が終わると昼食もそこそこに、屋敷の裏に繁る草木の中に自らの身を紛れ込ませました。  まだ夏に染まりきれていない青青とした森を抜け、冷たい細流へと辿り着いたときでした。  そこには真っ黒な先客がいたのでした。それが、彼女だったのです。  あのときのことは、とても鮮明に覚えています。私はあの日、「影」を初めて見たのです。まだ十にもならない頃です。「影」をどうやら人間は嫌いで、大陸の一部分に彼らを集めて、命令して働かせているらしい、ということをぼんやりと知っているに過ぎませんでした。  私や市井の友人たちと同じような外形の、しかし、顔の凹凸も判別できないくらい、内側だけ黒い墨で塗り潰されたように真っ黒な彼女を見て、私は驚きのあまり声をあげてしまいました。  あっ、だったか、うわぁ、だったか。私の驚いた声を聞いたのか、彼女は動きを止めて、頭らしき部分を動かし、辺りを見回す仕草をしました。  幼かった私は、純粋な好奇心のみで、未知の存在に恐怖を示すこともなく、逃げずに彼女の前に姿を現しました。  彼女は臆することなく距離を縮めた私に対して、何歩か後退りました。彼女の表情は真っ黒でわかりませんでしたが、今思えば、怯えていたのだと思います。  私は無垢な好奇心を満たすためだけに、彼女に、君は一体何者なんだ、と尋ねました。  彼女は長い沈黙の後、震える声で、私の名はクローディアと言うらしいです、と答えました。  それが、私とクローディアの出会いでした。  
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