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待ち合わせのバーの扉を開くと、カウンター席に三人座っている姿が見えた。少し猫背な深青の背中。先週と同色のスーツに瞳を細める私。
「おまたせ」と私が肩を叩くと、隆也は私を見るなり瞳を丸くさせた。
「なに?」
「いや、君があまりに綺麗でビックリした」
綺麗、そんな言葉、今まで散々と言われてきた。今さらときめくはずがない。……のに、心臓は破裂寸前だ。
その後、カクテルを飲みながら彼と色んな会話を弾ませた。幼少期の思い出。学生時代の話。彼は野球少年だったらしい。
「部活ばかりで彼女なんて作る暇はなかったよ」
心持ちつりあがった目で照れ笑い。可愛いな。
「奥様はどんな方?」
「んー、普通」
「子供は?」
「一人いる」
「奥様を愛してる?」
「家族としてね」
隆也はピスタチオを口に入れ、寂し気にこう言った。
「妻との恋愛は終わった」
その続きはホテルの一室。抱きしめられた後だった。
「なんか夢みたいだ」
「夢?」
「うん、僕は今、夢の中にいる。そして恋してる」
「恋?誰に?」
「答え知ってるくせに聞くの?」
「聞きたい」
「出会った日の天気予報は雨、僕は君に借りなくても傘を持っていた。それが答えだよ」
顔が段々と近づいてきて影が深くなる。睫毛を閉じて、私は彼の唇を受け入れた。それは一度目より、ゆったりとした甘く長いキスだった。こんな口づけ、私は知らない。
ベッドで重なり合い、喘ぐ私を確かめるよう、探るような愛撫。一つになってもそれは続いた。
今まで、私はこの行為を楽しむのは男性だけだと思ってた。でも違う。快楽のシーソーは明らかに私の方が重い。これが愛なら、自分は初めて男性に愛されたことになる。
全てが終わった後、隆也は私に軽いフレンチキスを落としこう言った。
「僕と恋愛しよう」
この夜から私達は一か月に二度、抱き合うようになった。不倫は悪いこと。そんなこと知ってる。『今日で最後』と、何百回も決意して手放した。隆也は麻薬のよう、ジリジリと私の首を締め上げる。会えないと禁断症状で息が苦しくなってしまうのだ。
会えれば苦しさから解放され幸せに満たされる。だけど、スーツを着て部屋を出て行く彼の背中は『寂しい』を置いていった。
耐えきれなくなり別れを切り出すと、彼は私に魔法の呪文を唱えて繋ぎ止める。
「愛してるアズ、別れたくない」
だったら、私をあなたのモノにしてよ。私を抱く時、簡単に外す結婚指輪
のように、妻を切り捨てて欲しい。
この台詞を何度言いかけて飲み込んだだろう。口に出したら終わる。それが分かっていたから言えなかった。
ある日、加奈がこう言った。
「昨日、彼と喧嘩した」
「真城さんと?なんで?」
「結婚を切り出したら、もう少し待ってくれって言われたから」
「結婚かぁ〜」
「ねぇ、アズ、うちら今年で二十七歳だよ。受け付け嬢も限界じゃない?そろそろ寿退社したいよ。子供だって欲しいしさ」
結婚、子供。隆也といる限り遠い世界だ。
考えていると、ふいに声がした。
「佐々木さん、二人目できたんだって。おめでとう」
「有り難うございます」
モップを持った清掃員二人の会話だ。佐々木、隆也と同じ名字。佐々木と呼ばれた清掃員は、いつも「ああはなりたくない」と加奈と囁き合ってる醜いオバさんだ。……結婚してたのか。
「ご主人、暫く見ないわね。前は良く会社まで迎えにきてたのに」
「ええ、仕事が忙しいらしくて」
「でも二人目ができたってことは仲の良い証拠よ。ごちそうさま」
「嫌だ、恥ずかしいわ」
ちょっと待って!私は記憶を巻き戻し隆也と出会ったシーンでストップさせた。雨の日、彼はこのビルの前にいた。奥さんを迎えにきていたんじゃ。嫌な予感。……まさか。
その週、隆也が隣で寝入ってる隙に私は自分への誓いを破ることになる。誓い、それは彼のスマホを見ないこと。現実から目を背けていたかったからだ。
ロック画面。解除番号は知っている。この三年間、何度も目の前で彼がロック解除したのを見ていたからだ。
そっと素足を床に下ろし、ベッド横に両足を立てて座った。解除成功。アルバムをタップした。見るのが怖くて目をギュッと閉じる。でも……と、覚悟を決めた瞼が開く。刹那、時が止まった。現実が私に噛みついたのだ。
「じゃあ、また連絡する」
その紺色の背中を私はボ〜と眺めた。頭に浮かぶのは、優しく愛を囁く隆也の笑顔。
『アズ、愛してる』
そんな言葉、嘘だって分かってた。でも信じたかった。信じる自分がいつも勝ってたんだよ。勝たせてよ!愛してるから。
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