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必死に床を磨く清掃員の腹はまだ膨らんでいない。
こんな女に私は負けない。負けるはずがない。
ホテルの部屋で私は隆也と向き合った。彼は緩く微笑んでネクタイを緩める。
「どうしたの?怖い顔してるよ」
「話がある」
「なに?」
「私のこと、本当に愛してる?」
「今更?愛してるに決まってるじゃん」
「じゃあ、奥さんと別れてよ」
「えっ?」
「えっ?じゃない。奥さんと別れて私と結婚してよ」
隆也の表情がみるみるひきつってゆく。
「そんなこと、今まで一言も言わなかったじゃん」
「アナタに嫌われるのが怖くてずっと我慢してた。言いたくても言えなかったんだよ!」
「分かったから、そんなに怒鳴らないで」
彼は指輪を外しサイドテーブルに置くと、また私に歩み寄り抱きしめた。
「今、僕はアズだけの彼氏だよ。だから怒らないで」
「うっ、ぐっ」
悔しくて唇を噛んだ。まるで駄々をこねる子供をあやすよう、頭を優しくポンポンしてくる。耳元で囁く声。
「アズ、我慢できない。しよ」
この人はなにも分かってない。直球を投げてもミットさえ構えてくれない。投げたボールはバックネットに当たって、まだここに転がっているのに。
「妊娠してるくせに……」
「えっ?」
「奥さんが二人目をみごもってるって言ったんだよ」
頭に置かれた手が引かれた。
「妻を知ってるの?」
「知ってるよ。うちの会社ビルの清掃員でしょ?ちなみにスマホのアルバムも見た。奥さんと男の子とあなたが笑顔で映ってる写真が何枚もあったよ」
「見たのか……」
片手で口元を隠し俯く隆也。
「困るよ」
「なにが困るの?」
「だって君は僕の夢の住人じゃん。現実に足を踏み入れてきたら反則だろ」
「夢?」
「最初に言ったよね?僕は今、夢を見てるって」
「その夢はいつまで続くの?」
「君が理解して良い娘でいてくれるならずっと続くよ。それじゃダメなの?」
「なに、それ」
握った拳がプルプル震えた。
「隆也にとっていい娘って、いつでも抱けて詮索もしない都合の良い女でしょ?」
「そうだよ。だから夢じゃん」
「だったら現実の私はどうすればいいの?私はあなたを現実で愛してる!あなたと結婚したい。子供だって欲しいんだよ!」
「それは夢の住人じゃいられないってこと?」
「いられるわけがない!私はあなたと一緒に現実を行きたい!歩きたいんだよ!」
「あっそ」
隆也は冷めた声でそう言うと、私に背を向け歩き出す。
「待って、どこへ行くの?」
「夢から覚めたから帰る」
「それは、私と別れるってこと?」
「だって君が夢を壊したんだろ」
「私は!」
「これ以上、聞きたくない」
彼はドアを開き、最後に言葉を吐き捨て出ていった。吐き捨てられた言葉、それは……。
「オモチャのアクセサリーのくせに」
だった。
床にペタンと尻をつく。そっか、と思った。私は彼の夢……。人ではなくオモチャのアクセサリー……だったんだ。
「ふふっ」
笑いがこみあげた。
嘘つき……。ズルい男。
帰り道、不思議と涙は出なかった。だけど寂しくて加奈に電話した。隠してた全てを話すと、加奈は「彼氏を帰すから今すぐ家にきて」と言ってくれる。
その晩、加奈は朝まで付き合ってくれた。やっと涙が出たのは彼女の言葉。
「二十代なんてあっという間に終わる。一番綺麗な時間、不倫なんかで無駄に使うなよ」
「だけど好きだったんだよ!」
「だけどアズは性処理だった」
「だけど愛してたんだよ!」
「だけど、愛されてなかった!」
「だけど……」
「だけどじゃない!バカ女!」
加奈が私を抱きしめる。
「泣け!」
「うあっ、ああぁっ!」
「足らない!もっと!」
「うわああああーーっ!!」
綺麗なだけじゃアクセサリーと同じ。見た目だけじゃ、人の本当を手に入れることはできない。
清掃員の妻に、私は負けた。いえ、勝負にさえならなかったのかもしれない。だって、私は夢、妻は現実。最初から立つフィールドが違ったんだから。
隆也の妻を見たのは翌週のこと。彼女は子を宿し必死に床をモップで磨いていた。
今、私の手の中には、彼女を傷つける武器が握られている。ホテルに忘れた隆也の結婚指輪。あの後、隆也はLINEで私に何度も聞いた。
『アズ、指輪知らない?』
『もし持ってるなら返して欲しい』
『言いすぎて悪かった。反省してる』
『頼むから妻にはバラさないで』
私は一切無視。彼をブロックした。
この指輪を今、彼女に届けようと思う。どうしても届けたいからだ。
「佐々木さん、でしたよね?」
私は受け付けカウンターから出て妻に声をかける。彼女はモップを止めて私を見た。手の中の指輪を強く握った後、私は妻に指輪を差し出した。
「えっ?」
彼女は指輪を受け取り凝視している。
「これ、主人の指輪」
私はニッコリ微笑んだ。
「モップがけの時、これを落としましたよ」
「まあ」
妻は驚きを表わにした。
「この指輪、紛失したと言って主人が必死に探していたんです。でも、どうしてここに……」
「さあ、午前中に佐々木さんが落としたのは確かですよ。見ましたから」
「そうですか。きっと知らないうちに私が持っていたのかも知れないですね。有り難うございます」
「いえ、では」
私は彼女に背を向ける。すると背後から低い声がした。
「それとも三年前、雨の日に主人と消えた女が持っていたのかも」
なっ!背筋に悪寒が走る。足が止まり身動きができない背中。その背中に妻は言葉を放った。
「主人がお世話になりました」
モップを持った醜い女。自分より、はるかに年上の女。私の背後には絶対王者が立っている。
自動扉が開くたび、雨が路面を叩く音がした。だけど、あの日と同じ雨ではない。その雨は敗者を崖の上から眺めて嘲笑う雨だった。
指輪など渡さなければ、ただの通り雨だったのに。
……届けなければ、知らずにすんだのに。
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