頭の中の猫

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コーヒーが運ばれてきた。 僕の前には小鉢に盛られたポーション・ミルクの山とともに、ソーサーの上に乗った白いカップ、中には湯気をたてる闇夜のように黒いコーヒーがあった。 コップの冷水を口に含んでから、何も入れずブラックのままのコーヒーを飲んだ。 喫茶店ならではの強い芳香と心地よい苦味で萎れかけていた頭の中に灯りが灯った。 バッグから単行本を出してしおりを挟んでおいたページを開いた。 持ってきた本は昔の作家の紀行文集だった。 世間で認知され売れる以前の時代、国内外を貧乏旅行してきた記録たち。 観光地ではない、無名の人々が生活する土地を巡り大した事件にも出会わずに根無草として次から次へと渡り歩いた日々。 簡素で寡黙な文章は商業用に書かれた原稿というよりも、旅のメモを書き起こし清書したかのようだった。 そのせいか、どの節も抵抗なく頭の中にするりと入り込んでくる。 僕自身が旅行者になって筆者の歩く土地の中にいるかのような錯覚が立ち上がってきた。 国内のとある地方の一章があった。 斜面にいくつもの小さな住宅のある集落の、車の入らないような細い入り組んだ生活道路の小径をのぼってゆくと、家の窓の奥から住民がじっと見ている。 自分たちのテリトリーに入り込んだ見知らぬ余所者に対する警戒と好奇心の入り混じった視線。 作家は目が合った者に挨拶をしようとするけれど、住民は目を逸らし家の奥に引っ込んでしまう。 旅の思い出作りに地元の住民との会話でもできたらいいのだが……しかし入り込んだ余所者になかなか距離を詰めさせてもらえず語る相手もない。 ふと、家同士の隙間のコンクリートの階段の上に流れるように動いた水の塊を見た。 よく見ると、細身で艶やかな毛並みの黒猫だった。 目が合ったので挨拶をしてもただ見返すだけで動かず、こちらが歩き出すとそのままふいといなくなってしまう。 階段を登り切ったところで辺りを見回しても黒猫の姿は見えない。 別の一章では海外の漁師町に旅行した話だった。 観光地ではない土地で東洋人の旅行者は珍しかったらしい。 口数が少ないが気の良い現地の人々と、魚料理を堪能した後、市場の外れの散策で民家の入り組んだエリアで黒猫を見かける。 僕……筆者には、「まさか」と思いつつ国内旅行で見かけた、集落の小径の上にいたのと同一の黒猫に思えた。 不思議に見つめ合っていると、通りがかりの老婆から早口のスペイン語で何かを捲し立てられた。 意味は分からないが、黒猫と見つめ合ってることはあまり良くないことらしい。 ページから目を上げると、喫茶店のウィンドーの外、商店街の街並みはやや陽が傾いてきたようだった。 冷たくなった黒い液体を飲み干すと、しおりを挟んでから本を閉じてバッグに入れて席を立つ。 夜の自宅、寝る前に少しだけ調べ物をしたついでに喫茶店で読んだ章を読み直してみて驚いた。 二つのエッセイのほとんどは日中に読んだとおりなのだが、黒猫の降りがごっそりと抜けている……始めからそんな箇所が入っていないかのように。 ページをめくり、他の章まで確認しても、いわばこの本の中に、黒猫は一匹もいないのである。 それでは喫茶店の読書はどうだったのか。 思い返してふと思った。 読み出した文章を頭の中で再現している最中、筆者が書いていない描写を勝手にねじ込んでいたのではないかと気がついた。 あの黒猫は完全に僕の頭の中だけの想像で、かつて筆者の前に現れたことなどまるでなかった。 どうしてそんなことになったんだろう、疲れてたからか? 僕はつらつら考えるうちに、真っ黒なコーヒーのことを思い出した。 あの黒い液体を口に含んだ時、コーヒーは黒猫になって本のページの中に入り込んできたのではないかと気がついた。 しなやかな猫は液体のように滑らかに動く。 細い隙間にもするりと入り込む。 いわんや、人間の頭の中にだって平然と忍び込むだろう。 僕は日を改めてコーヒーを飲みに行くことに決めた。 単行本を一つ持って、非在の黒猫に会いに。
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