日曜日、優しい梓眞さん

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日曜日、優しい梓眞さん

 原沢(はらさわ)莉久(りく)がバイトから帰ると、玄関に父のものではない男性靴があった。その主が莉久にはすぐにわかり、わくわくと胸を弾ませた。  まだ梅雨が明けていないが今年は雨が少なく、今日も空はすっきりと晴れている。夕方でも蒸し暑くて、莉久はネイビーのシャツの襟もとをぱたつかせた。肌に薄く滲んだ汗にわずかな不快さを覚えたけれど、嬉しい来客にそんな些末なことはどこかに飛んでいく。  綺麗に揃えられた靴の隣に、同じように靴を揃えてリビングにまっすぐ向かった。  莉久の帰宅に気がついたのは父の灯里(とうり)の友人である中本(なかもと)梓眞(あずま)で、彼は優しい微笑みを浮かべた。靴の主はこの男性だ。  色素の薄い髪に均整の取れた体格、高い身長は以前聞いたときに一八〇センチだと言っていた。四十一歳には見えない顔立ちは整っていて、笑みが浮かぶと見惚れるほどだ。ダークグレーのシャツに黒のテーパードパンツがすっとした体形に合っている。一七三センチの莉久は、体格に恵まれて外見の整った梓眞が羨ましい。どうしたらそんなに背が伸びるのだろうか。梓眞は平凡な莉久の憧れだ。 「おかえり、莉久」 「梓眞さん、いらっしゃい」 「莉久、先に手洗ってこい」  灯里に言われたとおりに洗面室に向かい、手洗いとうがいをして急ぎ足でリビングに戻る。  莉久は幼い頃から可愛がってくれている優しい梓眞が大好きで、会えるとはしゃいでしまう。子どもっぽいかとも思うけれど、それほどに優しい人なのだ。父の灯里も梓眞を心から信頼しているのがわかる。  莉久の両親は互いの仕事が原因の気持ちのすれ違いで、莉久が中学にあがるときに離婚し、今は灯里とふたりで暮らしている。離婚理由を聞いたのは最近――高校に入ってからだが、幼いながらも両親の仲がぎくしゃくしているのは気がついていたので、「気持ちのすれ違い」はすぐに納得できた。  そのあと梓眞が灯里のサポート役を買って出てくれて、今ではまるでもうひとりの父のような存在だ。 「梓眞さん、たまには泊まっていってよ」 「そうだね」 「我儘言うな。でも、それだけ懐いてるならよかった」  自身の黒髪を手で軽くかきまぜた灯里はなぜか安心したような表情を見せ、ベージュのサマーニットの袖から出た腕を少し撫でてからエアコンを操作した。リビングは少し冷えすぎていると莉久も感じた。  莉久の黒髪と黒い瞳は灯里ゆずりだ。実年齢の十五より幼く見える童顔も、きっと灯里に似たのだと思う。灯里も三十八よりだいぶ若く見える。身長は、今はわずかに灯里のほうが高いが、莉久はまだ伸びるだろうから抜かせる自信がある。 「よかったってなにが?」 「実はな――」  灯里の出張が決まり、期間が少し長めになりそうだと言う。高校生の莉久を家にひとりにしておけないので、明日の月曜日から二週間、梓眞のところに世話になれ、とのことだった。  今年度になり、会社で部署の異動があった灯里は、これからこういうことが増えるかもしれないと申し訳なさそうに話す。  そんなに楽しそうなことはない、と莉久の心は弾んだ。お盆や年末年始に帰省することもなく、泊まりで出かけることに憧れているからだ。父方の祖父母のことは、灯里が話したがらないので聞いたことがないが、疎遠であることはたしかだ。母方の祖父母は莉久が生まれたときにはすでに亡く、それでも母がいた頃は二、三回だけれど温泉や避暑にいったこともある。灯里があまり外泊好きではないので今では旅行もまったくいかず、いくとしたら莉久が校外学習や修学旅行などの行事でいくのみだ。  我が家はそんな旅行事情なのだから、わくわくするのは仕方がない。 「梓眞さんのマンションって、俺の高校まで近かったよね? どうせなら今日からいきたいけど、だめ?」 「梓眞、いいか?」 「かまわないよ」 「やった」  急いで自室に戻り、荷物をまとめるあいだも気持ちが浮き立つ。大好きな梓眞と二週間も一緒にいられるし、学校行事以外での外泊なんて本当に久しぶりだ。  荷造りが終わって階段をおりると、玄関で梓眞が灯里と待ってくれていた。 「いってきます」 「いってこい。頼むな、梓眞」 「うん。まかせて」  灯里に見送られ、梓眞の住むマンションへと出発した。
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