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「昔、少しだけ意識が戻ったことがあるんだ。ほんの少しだけ」
「何故かは分からないけど、その時の感覚は本物だったと確信している」
「シーツの感触と、病室の匂いと、朝日の眩しさと」
「それと、寂しかった」
「え?」
「ほんの一瞬だったはずなのに、ひとりぼっちのその空間を寂しいと、確かに思ったんだ」
どこか嬉しそうに語る彼に、僕は言葉をかけることができませんでした。
「君にはその内、迎えが来るよ」
「迎え?」
「魂だけであの世には行けないからね。君の半身が君を迎えに来る。」
「【判読不能】は?」
「……言っただろ」
「俺には迎えに来れるような動ける体がないんだ」
その時、僕が闇雲に鍵盤を押したり蛇腹を開いていたアコーディオンから音が鳴りました。
それは、とても甲高く、伸びのある音色でした。
「そうそう、それだ」
彼は感慨深げにアコーディオンを指差し、言いました。
「これなら、下にいる君にも聞こえるかもな」
その日、僕は一日中その音を響かせていました。
***
「【判読不能】」
「ん?」
「僕、そろそろ行くよ」
「……」
「僕の体が僕を探してるみたいだから、一緒に上に行く」
「そっか」
「止めないの?」
「うん」
「……君はまた、一人になるんだね」
「うん」
「……」
「君を一人にしたくない」
「なんで?」
「だって、ひとりぼっちは寂しいでしょ」
「それだけだ」
彼は僕の言葉に被せるように短くそう言いました。
「え?」
「ここにある苦しみはそれだけだよ。他には何もない」
「他の苦しみなんて知りたくないからね。だから、俺はここにいたいんだ」
「……そっか」
それが嘘だと分かっていながら、僕は彼の言葉を飲み込んだのです。
「また、会えるといいね。上で」
「……」
何も言わずシャボン玉の壁から外を見つめる彼の表情はやっぱり、よく分かりませんでした。
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