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「約束してくれ、来人。帰ってくるって」
「先生」
私の絞り出した言葉を遮るように、彼は言葉を被せた。
「僕の最大の幸運は、あなたの患者であったことだと思うんです」
「先生のおかげで僕は彼に気づいて、会いに行こうと思えた」
「音が聞こえるんです」
私はそう言われて思わず、セミたちの叫び声が響き続ける中庭の木々に目を向けた。
「そっちじゃなくて、ほら」
「背中から聞こえてくるこの悲しい音色ですよ」
そう言って、彼は人差し指を彼の背後に向けた。
「広い悲しみの真ん中にポツンと佇んで、必死で歌っているような、そんな音」
「僕を呼んでるんですよ、ずっと」
「聞こえませんよね。先生は僕じゃないから」
そう言って、彼は歩を進める。
「先生と一緒にいる時だけは、人みたいになれた」
「もういいんです。それで」
一度だけ振り返った彼の表情は、涙でぼやけていた。
***
「すみません。お待たせしました」
落ち着いた低い声に顔を上げると、コーヒーカップを二つ持った男が部屋に入ってくるところだった。
背中で慎重にドアを閉めると、脇のテーブルにカップを置いて私の正面の椅子に座る。
メンタルクリニックに来るのは初めてだったが、診察室には小物やインテリアが並べられ幾分カジュアルに見えた。
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