時よ止まれ

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 突然背後から頬に冷たい何かが押し当てられ、思わず目を見開く。慌てて振り返ると春樹兄さんがにやっと笑っていた。 「飲めよ海人。水分補給はしっかりしろ」 「あ、ありがと」  そっと手を伸ばしてコップを受け取ると、麦茶の香りがした。コップの半分ほどを飲んだところで思ったよりも自分の喉が乾いていたことに気づく。時計を見ると、縁側に座り込んでから既に一時間が経っていた。 「何か考えてたのか?」 「……いや、ボーッとしてただけ」 「ふーん。ボーッと、ねぇ」  とっさの言い訳がうまくなれたらいいのに。兄さんのこと考えてたんだ、なんて本人に向かって言えるほど大胆な性格はしていないし、下手なことを言ってそこから悟られるのも怖い。言葉を重ねるのも、黙り込むのも、良い策のようには思えなかった。 「ばあちゃんがクーラー付けるってさ。もう日も沈むし、そろそろ中入れよ」  ぽん、と肩を叩いて何事も無かったように兄さんは部屋の中へと消えていった。それが少し残念なように思えて、いったい何を期待していたのかと自分を恥じる。 「問い詰めて欲しかったんかな、僕」  そんな呟きを拾う人はいない。小さな声は夏の夕焼けに溶けて消えた。  幼い頃から夏休みはばあちゃんの家で過ごすのがお決まりで、そこにはいつも従兄弟の春樹兄さんがいた。宿題で分からないところがあれば教えてもらい、悩みごとがあれば何でも相談をし、漫画もゲームも夜ふかしも、全部春樹兄さんに教えてもらって、本当にお兄ちゃんがいたらこんな感じなのかな。なんて最初は無邪気にそう思っていた。  それが突如として崩壊したのが数年前。僕が中学生になって初めての夏のことだ。  ばあちゃんがお隣さんから貰ってきた線香花火を二人並んで見ている時に、春樹兄さんから不意にキスをされた。唇が離れた瞬間、 「え?」  そんな声しか出てこない僕を見て、春樹兄さんは何も言わなかった。  その時は、どうして春樹兄さんが僕にキスをしてきたのかなんてさっぱりわからなかったし、正直今でも分かっていない。何か他に言葉をかけられたことがあるわけでもないし、それを匂わされたこともない。  そしてその年から年に一回花火をする日にだけ、なぜか兄さんは僕に掠めるような淡いキスをしてくる。  線香花火が消えた瞬間の暗がりの中、兄さんの顔がが近づいてきてスッと瞼が伏せられていく映像が脳裏にスローモーションで蘇って、思わず頭を抱えた。今日もされるんだろうか。ニコニコで夜に向けて花火の支度をしているばあちゃんの顔が遠くにチラリと見えてため息をつきたくなった。  あの日、聞いてしまえば良かったんだろうか。どうしてキスしたの? なんてストレートに。それから何となくお兄ちゃんと呼ぶのをやめて、春樹兄さんと呼ぶようにしている。他意は無いつもりだけど、もしかすると自分自身の他意に、ただ気付かないふりをしているだけなのかもしれない。  悩んだところで夜は来るし、逃げたところで正解も見つからない。今日こそは、と心のなかで呟いてみたものの、笑ってしまうほどぬるい決意だった。 「綺麗だな、線香花火」 「そうだね。ちょっと寂しくもあるけど」  夜はあっという間に来て、ぬるい決意を抱えたまま今年も並んで線香花火を眺めている。 「夏休みが終わったら、高校生活なんてあっという間だな」 「あっという間だったよ、この三年間」  来年からは早々に合格を決めた大学への進学に合わせて東京に出る予定だが、それでも夏休みにはここに帰って来ると伝えてあるものの、春樹兄さんは優しいようで淋しげな顔でこちらを見ていた。 「上京したら世界は一気に広くなる。無理はするなよ」 「兄さんこそ、就職おめでとうございます」 「おめでたいけど、憂鬱だよなあ」  常に忙しい父の背中を思い出すと、兄さんが憂鬱だと言いたくなるのも分かるけれど、思わず吹き出してしまう。 「お前だってバイトとか始めたら、この憂鬱な気持ちもちょっとは分かるだろうよ」  少しすねた様子の顔を見ながら、それ以上は何も言わないことにする。 「ま、バイトって言っても、変なのには引っかかるなよ? 上手い話なんてこの世に存在しないと思っとけ」 「ふふ、ありがと」  兄を通り越して、父のようなことを言い出すものだから、また少し笑ってしまった。それと同時に心配してくれているんだな、と嬉しくもなる。 「それにしても、もう大学生か……早いなあ、何ならもう成人もしてるんだもんなあ」  その声があまりにも弱々しく聞こえて、思わず春樹兄さんの顔を覗き込むと、目があった瞬間に兄さんはそっと唇を近づけてきた。  瞼は伏せられなかった。開けられたままの真っ黒な瞳の中に線香花火のきらめきを見つけて、初めてちゃんと目が合ったことに気づく。いつもは線香花火が落ちた後なのに。  いつもより長く重ねられた唇はカサついていなくて、何となくそれが寂しかった。  何もかもがいつもと違って、何となくこれが最後なんだな、と思った。花火のきらめきが瞳から消えて、そっと唇を離される。 「……大学合格おめでとう」  さっきまで重ねられていた唇がそう言葉を紡ぐのを見て、問い詰めるような言葉を重ねられるような性格をしていれば良かった。  真っ黒な瞳の中にきらめいた線香花火の光が、きっとこれからも忘れられないまま僕は生きていくのだろう。  『どうして』はそっと飲み込んだ。……苦い味がした。
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