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「はずめますて!」
突然のバカでかい声に、セレンはハッと顔を上げた。
楓も目を丸くさせながら、セレンに後ろを見るよう顎でクイクイと指し示している。
言われるがまま振り向くと、そこにはオカッパ頭の女が立っていた。
「へへ、噛んじゃった。すみません、もう一回。はずめますて! あ、また」
女は、ブカブカの黒いトレーナーの袖から少しだけはみ出した指で、恥ずかしそうに頭をかいている。
この女には見覚えがある。
ついさっき、ライブハウスの前で捨てられた子猫の世話をしていた女だ。
後ろ姿だったからよく分からなかったけど、近くで見ると顔つきが幼く背も小さい。
ガキじゃねーか、と思わず口から漏れそうになる。
「あの、ちょっと練習していいですか?」
「は?」
女はくるりと背を向けると、聞こえないくらい小さな声で何かぼそぼそと呟いてから、最後に拳を握り「よし! よし!」と繰り返し声を上げた。
なぜそんなに意気込んでいるのかセレンにはまったく分からない。
振り返った女の目は、引くほど血走っている。
「はずめますて! あっ」
「どうも」
まともに相手をしないほうがいいと判断したセレンは、バーカウンターに向き直った。
頭のおかしなやつに違いない。
軽くため息をついて、目の前のショートグラスを手に取る。
「わたし、オレンジジュースで!」
女はセレンの隣に座ると、片手をピンと上げてバーカウンターに身を乗り出した。
「あ……分かった、ちょっと待ってね」
明らかに勢いに負けている楓の声は上擦っている。
女はオレンジジュースを受け取り、セレンが手に持っているグラスをちらりと見やってから申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、お酒が飲めなくて」
―――何だこいつ……!
一緒に飲む気なんか、さらさらない。
けれど意気揚々とドリンクを手に掲げる女に心の声が届くはずもなく、セレンが持っていたグラスに「乾杯!」と無理やり身体ごとぶつけてくる。
ガチンと豪快な音が響き、グラスの中で大きく揺れるカクテルをセレンは無言で―――見るしかなかった。
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