高園いろ巴という女

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「おうたをうたうときに、きもちをこめてくださいってほかのせんせいにいわれたんだけど、おうたにきもちをこめるってなあに?」  「ん〜そうだなあ」  わたしは両手で丸を作ると、女の子の胸にそっとあてた。 「この丸はね、お歌を歌う時にだけ胸の前に出てくる特別な風船なの。この風船に大切な気持ちを乗せて、お空に飛ばすところを想像してみてごらん。そうしたら、風船が歌っている時の気持ちを大切な人に届けてくれるよ」 「ほんと?」 「うん、今度お歌を歌う時にやってみて」 「ありがとう! やってみる!」  子ども達はびっくりするくらい素直だ。  このかけがえのない素直さに触れられる瞬間があるおかげで、辛いことや悲しいことがあっても頑張って来られている。  後ろ髪を引かれる思いで保育室から出ようとした時、いつも通り子ども達からたくさんのお手紙を貰って今日も胸が熱くなった。  わたしのほうがもっとお礼を言いたいくらいなのに。  貰った手紙をトートバッグの中に大切にしまい、わたしは保育室を後にした。  ダウンコートを羽織って幼稚園を出ると、もう夕方を過ぎていた。  目頭がシクシクと痛くなるようなオレンジの陽が、帰宅を待ち侘びたビル群の隙間を縫って大通りを広く照らしている。  一日中、休みなく演奏して子ども達と遊ぶとさすがに疲れてしまい、早く身体を休ませたいところだけど、これから着替えや譜面、楽器なんかの荷物を家に取りに帰らないといけない。  今の時刻を確認するためにスマホを見ると、セレンからラインが来ていたことに気が付いた。 『仕事が終わったから、一緒に荷物取りに行くよ』  ラインが来たのは10分前だ。  セレンのことだから、また待ち伏せされていないか心配してくれているんだろう。  一人で大丈夫だよ、と返信するとすぐに返事が返ってきた。 『一人はだめ。おれも行くから』  そんなに心配しなくても大丈夫なのに。  人をからかって面白がるくせに、こういう時だけはやけに気にかけてくれる。  優しいんだか優しくないんだか。  わたしは、分かったとだけ返事を送った。
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