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「行くよ」
あっさりとした口調だった。
わたしは、目の前の胸を押しやってセレンを見上げた。
あの日の夜空のような漆黒の瞳が、優しくわたしを見下ろしている。
頬を包み込んでいた手はそっと離れていった。
「行くの?」
「うん、もうすぐ行くよ。準備ができたら」
もうすぐ―――そう言いかけて、わたしは唇を閉じた。
やっぱり彩世さんの言葉は正しかった。
これだけずっと一緒にいたのに、セレンがどうしたいのか、何を望んでいるのか一つも気付くことができなかった。
わたしがこんな調子だから、セレンも話す気になれなかったんだろうか。
彩世さんの言う通り、わたしはセレンの足を引っ張っていたんだろうか。
「……ほんとに行くの?」
声が震える。
何度聞いても答えは同じなのに、確かめるようにセレンに問いかけた。
セレンは小さく頷いただけで何も言わなかった。
他にも聞きたいことがたくさんある。
それなのに、感情の読めない人形のような冷たい表情を浮かべたセレンに見下ろされていると、これ以上口を開けなくなった。
耳を塞ぎたくなる内容でも、さらりと簡単に話し始めそうな雰囲気がビシビシと伝わってくる。
もしも二人が結婚を考えるような仲だったとしたら、わたしは今度こそこの場で膝から崩れ落ちてしまうだろう。
セレンの中では、ごく自然な流れに身を任せた結果だったのかもしれないけど、わたしにとっては死活問題だ。
とてもじゃないけど、まともに受け止められそうにない。
涙も出ていないのに、ヒクヒクと呼吸が浅くなる。
ロサンゼルスに行くなら一言でもいいから教えて欲しかった。
どうしてギリギリになるまで話してくれなかったのと、セレンを責めたい気持ちがふつふつと湧いてくる。
けれど、セレンの気持ちをまったく考えてこなかったわたしが悪いから仕方がない。
まともな演奏料も貰わないで、その日暮らしのようなギリギリの生活を続けても能天気に過ごしていたわたしを、セレンは少なからず心配してくれていたんだろう。
それなら、わたしは一人でも大丈夫だと安心してもらわないといけない。
ロサンゼルスに行ったら、何も気にせずに今よりもっと楽しく音楽に集中できるように。
「その話、誰から聞いた?」
穏やかだけど、どこか鋭さのある声が降ってくる。
わたしは心の中で「やばい、バレちゃう」と、一人ごちた。
「誰っていうか……ちょっと小耳に挟んだって感じかな」
「ふぅん」
セレンが眉をひそめたのを見て気まずくなったわたしは深く俯いた。
彩世さんに会ったことを伝えたら、一から内容を話さないといけなくなる。
できたばかりの心の傷をえぐられるみたいで、それだけは避けたかった。
「とりあえずセレンがロサンゼルスに行くのは分かったよ。身体、冷えるからお風呂に入るね」
なるべく普通に話したつもりだ。
わたしは俯いたまま、洗面所の入り口に立っているセレンの横に身体を押し込んで、無理やりドアをバタンと閉めた。
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