気付けなかった真実

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 お風呂から上がると、セレンはいなかった。  ガランとした広過ぎるリビングはやけに寂しくて、思わず溜め息が漏れる。  どこに出かけたのか検討もつかないし、それについてはもう考えたくないのが本音だった。  とにかく全部、終わらせないといけない。  そして、その日は今日が一番いいと決意が固まったわたしは、自分の部屋に戻って荷物をまとめた。  服や譜面をバッグに入れて、重いキーボードを一台背負う。  もう一台のキーボードをソフトケースに入れて片手で持ち上げたと同時に、うちから荷物を運び出した日のことを思い出した。 『これ全部一人で持って帰って来る気だったのかよ』  あの日は、セレンがほとんどの荷物を運んでくれた。  困ったことがあれば、すぐに飛んで来て助けてくれた優しさが今頃になって身に染みる。  これからは何をするにも一人だ。  セレンに出会うまでは当たり前だったのに、今は凄く大きなことのように感じる。  玄関から一歩外に出ると、真夜中の匂いと湿気の混じった空気が鼻を掠めた。  雨は上がっている。  とりあえず、楽器が濡れずにすみそうで良かった。  四角いプレート状になった玄関のドアノブをゆっくりと押す。  ダウンライトの真っ白な光で、ピカピカと眩しい大理石の床が視界から少しずつ消えていき、胸が張り裂けそうになった。  高級感があってなかなか慣れなかったはずのセレンとの生活は、いつの間にかこれ以上になく心地のいいものに変わっていたのを思い知らされる。  ここに来ることはもう二度とない。  マンションのエントランス近くにあるポストの扉を開けて、借りていた鍵を中に入れると無機質な金属音が辺りに響いた。  これはわたしの恋が終わった音だ。  ついさっき気付いたばかりの長い片思いは、今あっけなく終わった。  ポストに背を向けて、大きなシャンデリアが煌めくエントランスホールを出ると、大粒の涙が一つ二つとこぼれ落ちた。 「情けないなあ……」    着古したダウンコートを羽織ったまま、袖口でむちゃくちゃに目を擦る。  ここで泣いたら、自分が悲劇のヒロインになりたがっているみたいで嫌だ。  だって、わたしがこの家を出ていく理由はセレンのためなんかじゃない。  これ以上、セレンを好きになったらそばにいるのが辛くなるからだ。  好きな人が遠く離れた場所に行って、他の人と幸せになる姿を見たくなかった。  理由はそれだけだ。
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