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「そう、せんせいとひきたくておかあさんにおしえてもらったの。せんせいもいっしょにひこう!」
女の子がベンチタイプのピアノイスをぽんぽんと叩く。
陽の光できらきらと光る無垢な瞳は、雨上がりの虹みたいな曲線を描いてすぐに見えなくなった。
「せんせい、ひいて〜!」
「ぼくもはやくうたいたい!」
「わたしも〜!」
あちこちから子ども達の声が聞こえてくる。
わたしは目頭が熱くなるのを堪えながら、何度も頷いた。
子ども達の前で涙は見せたくなかった。
素早くコートを脱いでショルダーバッグを脇に置く。
ピアノイスにサッと腰を下ろすと、譜面台についた細かな傷がふと目に入った。
―――いつもはあんまり気にしたことがなかったけど、こんな所にまでたくさん傷が入っていたんだ。
このピアノが、どんな時でも子ども達の心を明るく照らしてきたんだと思うと無性に愛おしくなる。
わたしは手のひらで、そっと傷を撫でた。
ここには大きなステージもない。
輝くスポットライトもない。
いい音響設備もないし、演奏が終わった後の盛大な拍手もない。
けれど、ここにはわたしの演奏を聴きたいと願ってくれる子ども達がいる。
バンドデビューをしていたら違う未来があったのかもしれないけど、わたしはやっぱり胸の奥が温かくなるこの場所が好きだ。
どれだけテレビで活躍できたとしても、こんな場所をずっと探し続けていたと思う。
こうしていれば良かったとか、しなければ良かったとか、そうやって迷うのはわたしが失敗を恐れているからだ。
本当は何が正しいのか、誰にも分からない。
だからこそ、子ども達の気持ちにはこの場で全力で答えていきたい。
わたしの音楽を求めてくれる気持ちとこのピアノの前では、どこまでも誠実でありたかった。
「さぁ、今日もたくさん歌おうね!」
ピアノの鍵盤に置いた手に心を込める。
迷うなら立ち止まって、周りに目を向けて、わたしがどんな人達に囲まれているのか見てみるのもいいかもしれない。
そうして演奏が終わったら、セレンからの返事をちゃんと受け止められる気がした。
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