九内晴廉という男

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 店内が暗くなる。  スポットライトの暖かい光がステージを照らすと、ドラムのカウントが始まった。  3、2、1―――  ヴォーカルが歌い出すのと同時に音を出す。  とりあえずはバッチリのタイミングだった。  ヴォーカルが息を吸う時には、わたしも同じように息を吸う。  伴奏も呼吸が大切だからだ。  ドラムやギターなどの楽器が一斉に入ると、曲が引き締まる。  特にセレンのベースが入ると伴奏に軸ができて安定し、重厚感が出てかっこいい。  ベースはバンドの大黒柱だ。  少しくらい他の和音が乱れてもベースさえしっかりしていれば演奏は進む。  セレンは日本人離れのリズム感を持っていて、細かい音符をテクニカルに弾けるけど、普段は伴奏の中に溶け込んで自己主張は一切しない。  けれど、音楽が盛り上がる大切な見せ場の時には、ハイレベルな演奏をちらりと見せて伴奏に華を添える。  自分が目立とうとはせず、脇役に徹してくれるからこちらは凄くやりやすくて楽しい。  それぞれの楽器がよくまとまって、演奏に集中できるからだ。  セレンが使っているベースは、飴色をしたヴィンテージもののジャズベースだ。  希少価値がついて三桁はくだらないらしい。  ベースにはあまり詳しくないわたしに、このライブハウスのマスターが教えてくれた。  どの辺りに価値があるのかイマイチよく分からないけど、少しハスキーで蠱惑する重低音は、セレン以外のベーシストでは聴いたことがない。  鍵盤の上で指を滑らせながら、ベースを覗き見ていたわたしに気付いたのか、セレンはふっと口元を緩めた。  演奏中はニコリともせず、つんとした表情で黙々と弾いているところしか見たことがなかったから内心驚いた。  笑みを返すと、今まで原曲通りだったベース音に、時々アレンジが加わり始める。  これは一緒に遊ぼうぜ、というサインだ。  わたしがその誘いに乗って即興で和音を変えると、セレンもそれに合わせて絶妙に音程を変えてくる。  さらにドラムも少し違うリズムを混ぜ、ギターが反応すると、ヴォーカルもメロディを変えておしゃれに歌い上げた。  熱気が最高潮に達する。  ヴォーカルが歌い終えると、客席から今日一番の歓声と拍手が沸き起こった。  想像以上の賞賛に、頭が床に付きそうな勢いでお辞儀をする。  楽しく弾いただけなのに、これだけ喜んで貰えるなんて最高に幸せな気分だ。  ここにセレンがいなかったら、演奏に付いて行くだけで精一杯だっただろう。  わたしに合わせてタイミングよくリードをしてくれたから、最後まで何も心配せずに力を出しきって楽しめた。 「セレン、お疲れさま! ありがとう、凄く楽しかった!」  次の曲を演奏するミュージシャン達の名前が呼ばれ始める中、ベースを片付けるセレンの元へ駆け寄る。  セレンは背を向けたままベースケースを広げる手を止め、こちらに綺麗な横顔を見せて「おれも」と嬉しそうに答えた。  きっと実力の半分も出していない。  でも、セレンも同じ気持ちだったことを知れて嬉しくなったわたしは、にこりと笑って大きく頷いた。
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