九内晴廉という男

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九内晴廉という男

「彼、わたしと婚約したのよ。だから、もう近付かないでくれる?」  肌を突き刺すような冷たい空気がオレンジに染まる夕暮れ時。  そこそこ年季の入った一人暮らし用のアパートを出るなり、知らない女の人から声をかけられた。  え、誰? とか、わたしを待ち伏せしてたの? とか、ダウンコートを羽織っているから見えないけど、実は今、毛玉だらけの部屋着だからできるだけ人に会いたくなかったな、とか色々なことが頭を過ぎる。 「は、はあ……」 「はあ、じゃないわよ。ちゃんと意味分かってんの?」  意味は分かるけど、状況がよく分からない。  今日は久しぶりのオフだったから、一日中くっちゃ寝してさっき起きたばかりだ。  コンビニでも行こうと思って、寝癖のついたオカッパ頭はそのまま、寝起き姿でダウンコートを羽織ってアパートを出て。  そしたら不意打ちのこれ(・・)に出くわした。  面識のない人物からの思いがけない謎の宣戦布告。  寝耳に水とは、まさにこういう状況を指すんだろう。 「意味は分かります、ただ」 「ただ?」  ただ、あなたの見た目が意味分かんないくらい綺麗です、とはさすがに言えず。  どこかの芸能人かと思うくらい目鼻立ちのくっきりした顔立ちに、手入れの行き届いたサラサラな茶色い髪、それからトレンドを程良く取り入れた洋服のセンス。  全部ひっくるめて非の打ち所がまったく見当たらない。  けれど、今にも怒りで爆発しそうな真っ赤な風船みたいな顔をした人に、いきなりこんなことを言ったら恐ろしい展開になるのはすぐに想像できた。 「バカにしてんのか!」って。  わたしにはパンパンに膨らんだ風船に針をぶっ刺す勇気は微塵もなかった。  いや、それにしてもだ。  自由奔放な性格で決まった相手も作らず、遊び呆けているあの男が婚約なんてするわけがない。  どういう流れでこうなったのかは分からないけど、これだけ綺麗な女の人をひっかけてその心を弄ぶなんて、あいつはやっぱりとんだスケコマシだ。  わたしはある男の顔を思い出しながら、心の中で舌打ちをした。 「あいつ、いい加減にしてよ……」 「あいつ?」  彼女はどすんと腕を組み、眉をひそめた。 「あ、いえ、今のはひとり言で……」 「なあに? わたしよりもあんたのほうが彼のことを知ってるって言いたいの?」 「何でそうなるんですか!? そういう意味じゃなくてですね……!」  頭がもげそうなほど勢いよく首を振るも、彼女は威圧感をたっぷりと発しながらじりじりと近付いてくる。 「じゃあどういう意味なのよ。このちんちくりんのとんちんかん!」 「ち、ちんちくりんのとんちんかん……? けなす言葉が古い……」 「は!?」  彼女の目がギロリと光り、思わずのけぞる。 「い、いえ……」 「あんたがセレンくんに相手をしてもらおうなんて、百万年早いのよ。分かる?」 「あの、ちょっと誤解されているようなので訂正しときたいんですけど」 「何よ」  背中にブロック塀がこつん、と当たる。  もう逃げ場はない。 「セレンとは音楽仲間というか友達というか……なのであなたが言うような関係では一切なくてですね」 「セレン……?」 「はい、セレンのことです」 「何であんたがセレンくんを呼び捨てにしてんのよ!」 「え、そこ? この人めんどくさ!」 「なんですって!? もう一回言ってみなさいよ!」  胸ぐらを掴もうと伸びてくる手を払い除け―――走る。  後ろから「待て!」と怒鳴り声が聞こえてきたけど、振り向きもせずにひたすら地面を蹴った。  高園(たかぞの) いろ()、26歳。  楽しみにしていた久しぶりのオフ日に、毛玉だらけの部屋着をコートで隠しながら、まあまあボロいアパートの前で絶体絶命のピンチを迎える。 ―――あの憎きスケコマシのせいで。
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