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朝七時半、ギリギリ学校に遅刻しない時間。
体調良好、朝食もばっちり。
天気は大雨、最悪。
総合的に見て、60点ってとこか。
そんな、微妙にテンションが下がる点数がついた水曜日の朝に、家の玄関のドアの前に立っている私は傘を開いた。
ああ、一時限目の教科は何だったかな。サキって誰と付き合ったんだったかな。別れたんだっけ。そういや、体育祭がもうすぐだ。借り物競走やってみたいんだけど、この学校、種目に入れてくれないしなあ。
女子高生らしい、非生産的な思考を巡らせながら、私は通学路を歩いていた。
乱雑な雨粒が傘に当たって、ザザザザと、何とも素敵なメロディーを奏でている。
「……暇だなあ……。」
その音に対抗するかの如く、私は呟く。
校区の端の方にあるからか、私の家の周りに住んでいる友達はいない。だから、登下校の時は、いつも一人で歩くことになる。
私は一人も大勢も程々に楽しめるタイプなのでそれ自体に不満はないのだけれど、こういうどんよりとした天気の日は別で、なんだか妙に心細くなってしまう。
かなり気に入っているセーラー服も、こんな天気では私の気分を良くさせるには至らない。
ああ、いっそ天変地異でも起きればこの陰鬱とした気分ともおさらばできるのになあ。
そんな不謹慎なことを考えながら、薄暗い静寂に包まれる私はため息をついた。
そう、薄暗い静寂に……静寂?
私はぐるりとあたりを見回した。
おかしい。雨はまだ降っているのに、雨音がさっぱり聞こえない。
「え、あ、あー、あーー。」
自分の、鈴のような声は聞こえる。どうやら超常的に鼓膜が破れたわけではなさそうだ。
と、なると……。
私は傘の外の雨をじっと見る。
「えっ……。」
思わず声が漏れる。私は目を擦ってから、もう一度注視してみた。
……間違いない。
私は傘を手から離し、上を仰ぎ見る。
……顔に、雨は落ちてこなかった。
すべての雨粒が、空中で静止していた。
「止まった雨粒」と聞くと、今この瞬間までの私は、写真の中の細長い形の雨を想像していただろう。けど今、それは間違いなんだと分かった。
「止まった雨粒」は、当然丸い。正確に言えば、横に潰れたボールのような形をしている。そんな雨粒が私を囲んでいる光景は、異様と表現するほかない。
私は恐る恐る腕を伸ばして、そのまま空を払う動きをしてみた。ピチャピチャと腕に水滴が当たる感覚があった。固定されているわけではなく、やっぱり、止まっているというのが正しいみたいだ。
「ちょ、ちょっと。確かに天変地異は天変地異だけど、こんな気味悪いのじゃなくて、もっと分かりやすいのにしてよ。」
私は混乱して、高次元に存在する誰かに文句を垂れる。
......これ、ここら一体大混乱なんじゃないの。私はキョロキョロと周りを見るが、それらしい騒動は起こっていないようだ。
「とりあえず、SNS見てみよう。」
私は、カバンからスマホを取り出そうとする。……しかしそれは叶わなかった。なぜなら、
「うわわっ。」
私の体全体が突如、何らかの力で上に引っ張られたからだ。私は訳も分からず、さっき放った傘を拾ってから、無我夢中で運よく近くにあった街路樹に掴まる。手が離れないように右腕でぎゅっと幹に掴まりながら、落ち着いて現状を確認しようと試みる。
そんな私の目に映ったのは、信じられない光景だった。
「あ、雨が、上がってる……?」
雨が上がっていた。それも物理的に。
さっきまで静止していた雨が、ビデオを巻き戻したように、空に戻っていたのだ。
「そりゃ確かに雨は上がってほしかったけど、そんな力業なことがあるかよ!」
人間はあまりに非日常に放り込まれると、混乱を通り越して苛立ってくるものなんだと知った。
そして、そんな私をあざ笑うかのようにまた非日常は襲ってくる。
「あ、あれ……?これ、浮力、強くなってない?」
初めはエレベーターに乗っている最中くらいの浮遊感だったのが、だんだん踏ん張らないと耐えられないくらいになっている。
「ちょ、ちょっと。体が空に浮きそうな時の対処法なんて私知らないんだけど。ね、ねえ。私、高いところ無理......きゃ、きゃあああああっ。」
一瞬で、街路樹の葉の部分まで体が持っていかれた。何とかもがいて、枝に掴まる。こ、これ、高いところ無理とか言ってる場合じゃない!へ、下手したら死なない?これ。どこまで浮かんでっちゃうの?え、傘、離したほうがいいのかな。
完全に冷静さを失ってしまって、思考がまとまらない。そんな時……
めりっ。
どこからか、木の皮がはがれる音がした。
……どこから鳴った音だろう。まさか、私の持ってる枝じゃあるまいし。
「い、いやあああああっ。」
傘をしっかりと手に握ったまま、私は空に投げ出された。
や、やばっ、速っ。と、止まんないの、これ。
私は焦りに焦る。が……
「あ、あれ?」
何だか感じる風圧が少ない。もしかして、あんまり浮力みたいなのは強くないのかな?
少し余裕が出た私は開いた傘を上に掲げてみる。
その姿はメリーポピンズさながらだろう。混乱が一周回って、呑気にそう思った。雨粒は相変わらず、私と同じくらいの速さで浮かび続けている。
止まる気配はないので、この現象が何なのか、分からないなりに考えてみることにする。まず、十中八九、私の体が空に登っているのと雨粒が空に戻ろうとしているのが無関係ということはないと思う。その二つが起きた理由には、何らかの繋がりがあるはずだ。……私は雨が上がり始めた時、「空に戻っている」ように見えたが、それ、案外正解なんじゃないかと思う。だって、傘からはみ出る空を見上げてみると、私の真上の雲がどんどん大きくなっているから。そして、その予想が当たっているとしたら……。
ちょうどその時、さっきから雨と共に上がり続けていた私の体が、雲の近くの高さで止まった。
や、やっぱり。雨は雲の中の水滴が落ちたものだから、雨が空に戻っているなら、ここで止まるはずと思ったのだ。これで、やはりこの現象は雨が、来た道を戻っているものだと考えていいだろう。私が雨の運命共同体になっているのは全く意味不明だが。
一旦予想通りのことが起きたので少し心に余裕ができ、私は恐る恐る下を見てみる。
「わ、やっぱ高!……でもなんか、不思議とあんまり怖くないな。」
ここまで来ると、落ちたらどうなるという想像が上手く出来ないからなのかもしれない。と、言うよりむしろ、だんだん楽しくなってきた。少し怖い思いはしたが、折角特大の非日常が起きているのだから、出来るだけ楽しまなきゃ損というものだろう。
「えっと、あれが学校かな?と、なると……あ、あったあった、私んち。悲しいことに相変わらず小さいなあ。」
私は普段身近な場所を、都度人差し指で指しながら探す。
……そういえば、よく分からないけど、気圧?酸素濃度?的なのは大丈夫なんだろうか。
上空はそういうのが低いって聞いたことがある気がするけど、私はピンピンしている。……ならいいか。
私は小難しいことを考えるのをやめて、再び自分の町のミニチュアのような景色を楽しみ始めた。
そうしている内に、私は一つの事に気づいた。
「ん?いつの間にか家があんなに遠く……あ、これ私、どんどん風に流されてる?」
考えてみればそれも理解が出来る。元雨粒の雲がそうであるから、私も空を揺蕩うように流されているのだろう。
その内、どんどん海が見えてきた。どこまで行ってしまうのかは考えると怖くなるので、それを覆い隠すように、私は本心半分、虚勢半分でまたはしゃぐ。
「あははっ、久しぶりに海でも行きたいなとは思ってたけど、まさか上空から見ることになるとは思わなかった……あれ?」
心なしか私の高度が落ちた。ま、今まで無風だったわけでもないし、そう考えたら別に気にならない程度だろう。まさかよりによって海に落ちるわけでもあるまいし……待てよ?
私は顎に手を当てて考える。私はあの時雨が上がるのを見て、なんと思ったんだっけ?……あれあれ?
…………雨って、どこから来るんだっけ?
体がグランと揺らぐ。そしてそのまま、私の体は海へと落ち始めた!
「あっ、うわあああああ!か、傘!勢い抑えてくれたり……うわ、もうひっくり返ってる!ちくしょう、お前なんか連れてくるんじゃなかった!や、やばい、水に触れる面積減らさないと、死ぬ!」
私は傘を手から離し、うろ覚えの飛び込み選手のポーズを真似て、手から着水した。
ざぶん。
「……ぷはあっ!」
私はゼーハーと肩で息をする。異様なことに、体はどこも痛くない。た、助かった。ほとんど衝撃を受けることなく入水できた、奇跡だ。私は神に感謝したが、考えてみればそもそもの元凶でもある。天気くらい上手く管理してよね。
そして、フゥっと息をつく。
セーラー服はびしょ濡れ。セーラー服は元々水平の制服だったと聞くが、彼らも海に飛び込むことはあったのだろうか。
陸地は頑張れば泳いで辿り着けるくらいの距離だ。服を脱いで泳ぐべきか、そのまま浮いて助けを待つべきか。
そもそも、もしや私は、不思議な力で次は川に運ばれてしまうのだろうか。
でもまあ、どちらにせよ……。
私は虚ろに前を見ながら呟いた。
「こりゃ遅刻だなあ……。」
時間は分からん、最悪。
服が海水で張り付いて気持ち悪い、風邪引きそう。
天気は快晴、焼け石に水。
-100点くらいの状況だが、60と100、数字だけは大きくなったし、まあいいだろう。
今日はいい日になりそうだ。
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