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雨脚が強くなる度に雨の匂いはより一層強くなっていった。
そう言えば、この雨の匂いをなんと言っただろうかと、僕はこの土臭いような雨の匂いに名前がついていた事をふと思い出した。
しかし、肝心なその名前が出てこない。
それにううんと唸っていると、ふと僕の耳元でこんな声が聞こえたような気がした。
――『この雨の匂いはね、ペリトコールって言うんだって』
ああ、そうだ。こんな雨の日に、僕にはそう教えてくれた人がいた。だけど、おかしい。名前も顔も、僕ははっきりと思い出せないでいる。
あの人は、ああ、どんな人だったか――。
頬杖をついて僕がその人のことを考えていると、いつの間にか薄暗かった空には晴れ間が見え始めた。
濡れた境内の石畳は薄い陽光を反射して橙色に淡く輝き、すぐ足元では虫の鳴く声が聞こえる。もうじき夕暮れなのだろう。
雨が上がり、そろそろ家に帰ろうかとそう思った時、突然、「こんなところにいたんだ」と1人の女性が僕に声を掛けて来た。
「お坊さんの御経がやっと終わったと思ったら、いつの間にかいなくなってるんだもん。もう、みんなで探したんだよ?」
長い髪を後ろで結い、水兵さんのような制服を着ているから僕よりも少し歳が上の高等の女学生さんだろうが、でも、どうして僕をまるで探していたような、そんな口ぶりなのだろうか。
そんな彼女を訝しく思いながらも、僕は彼女に尋ねた。
「あの、すみません。あなたは、どちらのご息女様でしたか。僕は清十郎と言うんですが、もしかしたら、人違いではありませんか?」
すると、それに彼女は一瞬あっけにとられたような顔をしたが、次にはぱっと曇天から覗くお天道様のように明るく笑うと、僕の隣にすとんと座った。
「なあんだ。また昔に戻っちゃってたのか」
「昔……と、言いますと?」
「ううん、なんでもない。私はね、文子って言うの。それで、清十郎さんはここで何をしていたの?」
「僕は、ここで雨宿りを。だけど、不思議なことに、どうして自分がここでそうしていたのか、それが……実は、あまり思い出せないんです」
「そうかあ、それは大変だなあ」
まるで、僕の一時的な記憶の喪失が取るに足らない些細な事であるかのように、その文子さんの口調はあまりにも暢気で、けれども、別にそれに腹を立てるわけでもなく、むしろ、そんな彼女の暢気さに朧気な不安をぶら下げている僕の心は妙に穏やかになった。
それから、「ところで、文子さんは何用でこちらに?」と僕が聞くと、「法事だよ、法事。ふふふ」と、なぜか、そうして彼女は僕をからかうように笑うのだった。
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