雨の匂い

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 雨上がりの境内には大きな水溜まりが点々と出来ていて、ふとそこに目をやると、明るい青緑色の筋が入った綺麗な黒い蝶がその(ふち)で羽を休めていた。  蝶というものは近づけばすぐに飛んで行ってしまうものだが、この蝶は面白いもので、飛んで行った後もひらりと踵を返したかのようにすぐに戻って来てはああして懸命に水を啜る。  健気で可愛らしいあの蝶の名前は、確か――いや、なんと言ったかな。  ――『アオスジアゲハだよ。雨上がりに水を飲みに飛んで来る綺麗な蝶。近づくとすぐに飛んで行っちゃうけど、ふと思い出したみたいに、また水を飲もうと彼らはここに戻って来る。あの綺麗な蝶が、私も好き』  ああ、そうだ。そんな名前だった。僕は、この雨上がりに飛んでくるこの綺麗な蝶が大好きだった。  その蝶の名前も、あの人が僕に教えてくれたのだ。  でも、そうだと言うのに、どうして僕はあの人のことをこんなにも思い出せないでいるのだろうか。  ああ、どうして――。  「ほら、もうすぐだよ。まだ歩けそう?」  「うん」  「あっ、でも無理はしちゃ駄目!心臓の薬、また朝飲まなかったんでしょ?いつも忘れるんだからってママが怒ってたよ。まったく……駄目だからね、ちゃんと薬は飲まないとさ」  「うん」  僕の時間だけがゆっくりと流れているような、そんな感覚が未だ覚めず、それが、今も頭の中を雨霧のように霞ませている。  足を一歩前に踏み出すのに必死で、もう彼女が僕に何を言っているのかは良くわからない。  微睡みの中で薄く夢を見ているような、そんな心地が僕の体を包み、大した距離を歩いたわけでもないのに体は酷く疲れている。  そのせいで、彼女への返事もそっけないものしかできず、その意味を問う気力すらも僕には残ってはいなかった。  ただ、前にもこうして女性と手を繋ぎながらこの境内を歩いたような、そんな微かな記憶が漠然と僕の脳裏に浮かび上がった。  あれは、母だったか――いいや、違う。  その時は、僕がその人の手を引いていた。僕はその人の傍にいるといつも気分が高揚とした。顔を合わせるだけで、僕の心は蜂蜜のように甘く(とろ)けた。  それが、僕にとっての幸福だったのではなかったか。  僕は、その人を――愛していたのではなかったか――。  まるでほの暗い水の中に手を入れるように、僕は記憶の糸をそうして手繰(たぐ)り寄せようとした。  ああ、それなのに、どうして――どうして――。  しかし、何もわからない。何も思い出せない。  僕の記憶は撥条(ぜんまい)仕掛けの玩具のように、大事な所で(つまづ)いてしまう。  僕は、名前も顔もわからないその人のことが急に恋しく恋しくてたまらなくなった。  果たして、また会えるのだろうか。どうして、その人はここにいないのだろうか。それを考えると、僕は道端に置き捨てられた犬や猫のように(わび)しい気持ちになる。  心底、僕はそんな頼りない自分に辟易(へきえき)した。  生きている意味さえ問いたくなる程に。
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