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もう記憶の遡行も、歩く事さえ億劫だ。
僕は前のめりになりながらも文子さんの手を握り、引きずられるように境内の外へと続く石畳を踏んだ。
境内がやたらと広く感じ、いつまでも同じところを歩き続けているような気がして、僕が一度足を止めようとしたその時、文子さんが僕の隣で腕を高く上げ「おーい」と何処かに合図を送くるような声を発した。
きっと彼女の家族がそこにいるのだろう。僕の家族もそこで一緒に僕を待っていると言っていたが――と、そうして境内の外に向かって嬉しそうに手を振っている彼女の横顔を、僕は暈けた視界でおもむろに見上げた。
その瞬間だった。
彼女のその横顔を見た途端、切れぎれとなっていた記憶の断片が恐ろしく速い濁流のように、突如として脳裏に押し寄せ、まるで千紫万紅のような鮮やかな景色が一瞬にして目の前に広がり、僕は、思わず目を見開いた。
通り過ぎる走馬灯のように、あるいは泡沫のように、矢継ぎ早に現れては消えていくその懐かしいような記憶の中で、僕は、ついにその人を見つけ出したのだ。
ああ、そうか、そうだったのか――。
雨の匂いと、あの蝶の名前を僕に教えてくれた君を、僕はずっと――。
それは、陽炎のような一時の幻を見ているかのようだった。
僕は、彼女の面影を文子さんに見たのだ。
今なら、何もかも思い出せそうな気がする。
彼女の名前も、ふとした仕草も、揺れる髪の香りも、肌に触れる愛しい感触でさえも――ああ、それなのに。
そうだというのに――どうして僕の頭の中は、こんなにも――ぼんやりとしているのだろう――どうして――。
彼女の面影が段々と遠ざかってく。鮮やかな僕の思い出が、また雨霧の中に霞んでいく。
待って、待ってくれ――!
まるで年老いた老人のように、僕は甚だしく息を切らして醜くも文子さんの腕にしがみついた。
そして、あ――という文子さんの声を最後に、僕は気が付くと、また清憶寺の御堂の軒下にぽつんと腰を下ろしていた。
目の前はまるで霧の中にでもいるように白けている。
酷く静かで、辺りには人ひとりおらず、僕はここで長いあいだ夢でも見ていたような心地になった。
ああ、どうしてまたここに戻って来てしまったのか――。
そう思った途端、あの朧気だった不安が胸へと再発し、僕は刹那に体を強張らせた。しかし、虚ろな頭ではそれもわからない。
ただただ、そこには悠長とした時間が流れ、僕はその揺蕩うような時間の流れに身をゆだねそっと目を閉じた。
瞼の裏に女性の顔がほんの一瞬薄っすらと見えたような気がしたが、しかし、もう僕にはそれが誰だったのかさえ思い出す事が出来なかった。
土の香りが鼻につく。
外は、あの土臭いような雨の匂いがしていた。
<了>
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