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「わ、本当に薄くなってる」  翌日、帰ろうと傘を広げたとき、昨日僕の後悔だと言って現れた女子生徒がいつの間にか隣にいた。 「……びっくりした……」 「あ、ごめん。昨日、西城くんが言ってたことが気になってさ、待ち伏せしてたの」 「全然気がつかなかった」 「だって君、上履きばかり見てるから」  彼女はそう言って僕の靴を指差したあと、今度は上を指した。 「昨日より薄いね」  僕も上を見る。そこには透明になりつつある傘が広がっていた。傘の向こう側の、どんよりとした空がうっすらと見える。 「なんでだろ? 色褪せてるのかな?」 「僕にもわからない」  首を横に振ったとき、彼女が手にしている傘が目に入った。僕は彼女に尋ねる。 「ねぇ。どうして透明の傘なの? なにか意味があるの?」 「この傘?」  問われた彼女は傘の留め具を外して広げる。頭上に差したそれは、たちまち雨を乗せて彼女が濡れるのを防いだ。 「別に意味はないよ。お気に入りってわけでもないし。ただ、家の傘立てに入ってたから使ってるだけ」 「そう……なんだ」 「逆に聞いてもいい?」 「なに?」 「西城くんの後悔って、なに?」  大きな瞳に、僕が映っていた。僕は催眠術にかけられたように、その瞳から目が離せない。  昨日、僕の後悔だと言って現れた女の子は、僕の妹そっくりで。どうして今さら現れたのかはわからないけれど、多分懺悔の時間をくれたのだろう。  雨が降ると妹のことを思い出して情けなくなる兄に、妹がくれた時間なら。  僕は傘に当たる音をBGMにしたまま、「妹がいたんだ」と話し始めた。 ***  雨が降ると誰も頼んでないのに、妹は僕の塾が終わるのを待っていた。彼女は僕が傘を持っていかないのを知っていて、僕も妹が傘を持ってきてくれるのが当たり前だと思っていた。  きょうだいというものは、どこの家庭でもそういうものだと思っていて、僕たちが特別仲がいいとは思っていなかった。  それは僕が中学三年生、妹が小学五年生のときだった。  中学三年生といえば受験生で、僕は少し学力の高い高校に進学しようとしていた。だから毎日勉強勉強で、それでも成績が上がらず焦っていた。いつも自作の単語カードを持ち歩き、ご飯を食べるときもトイレに行くときも登下校するときも常にそれを眺めてめくっていた。  雨の日は変わらず妹が塾まで迎えに来た。 「お兄ちゃん。ちゃんと寝てる? 勉強も大事だけど、休むことも大事だよ」 「…………」 「ずっと単語カードばっかり見てさぁ。前向かないと危ないよ?」 「…………」  僕と妹との会話はめっきり減った。不満そうな声は僕の耳に届いてはいたが、自分のことで精いっぱいだった僕は、妹の話をまともに聞かなかった。 「お母さんも心配してるよ? お兄ちゃん頭いいんだから、そんな根詰めなくても大丈夫だって」「ほら、そればっか見てないで前向いて」「お兄ちゃんってば」  いつの間にか妹の声が煩わしいと思うようになっていた。雨の日には必ず傘を持って僕の塾が終わるのを待っている。その姿さえも鬱陶しいと思い始めた。  毎日机にかじりついて、机以外でも単語を頭に叩き入れて、それでも上がらない成績。芳しくない模試の結果。『もう少しレベルを落とした方がいいかもね』と言う担任の声。  僕はイライラしていた。こんなに頑張っているのに報われないことが腹立たしかった。どうしてどうしてどうして。  夏休み、朝から夏期講習があり塾で勉強したあと、夕方に塾を出ると妹が透明な傘を差して待っていた。その日、家を出たときは曇り空で夏期講習中に雨が降り、しかし終わる頃には傘を差さなくても大丈夫なほどの小雨になっていた。  いつもは母親と一緒に来るのに、この日は妹ひとりだった。あとから聞いた話だが、母親に黙ってひとりで僕を迎えに来たらしい。 「お兄ちゃん」  妹は駆け寄ってきて差した傘の下に僕を入れようとする。いつもは自分の傘を差しながら僕の傘を持ってきてくれるのに、その日はなぜか一本の傘しか持ってきていなかった。 「まだ雨降ってるから、相合傘して帰ろ?」 「…………」  僕はそれを無視して歩き始めた。 「待ってよお兄ちゃん」  パタパタと追いかけてくる足音がする。僕は大股で歩いて単語カードに目を落とした。 「あーもう、また単語カード見てる! ほら、顔上げてごらんよ」 「…………」 「お兄ちゃんさぁ、下ばっか向きすぎじゃない? ちょっとでいいからさ、上向こうよ」  高い声が、あのときの僕には耳障りで仕方なかった。 「うるっさいな!」  人生で初めて、喉を傷めるくらいに大声を出した。妹は足を止め、僕はそんな妹を睨みつけた。 「迎えに来いなんて頼んでねぇよ! 小学生のおまえに僕の気持ちなんてわかるわけないだろ! ほっといてくれよ! 鬱陶しいんだよ!」  そのときの妹の顔は、今でも脳裏に焼き付いている。眉尻を下げ、困ったような表情だった。今ならわかる。あれは泣くのを我慢して、無理やり笑おうとした顔だった。  当時の自分は、自分にイライラしていたのに、妹が僕に干渉してくることに対してイライラしていると思い込んだ。それで妹に当たってイライラを解消しようとしてしまったのだと思う。でもそれに気づかずに僕は謝ることなく、妹を置いて早足で帰ってしまった。どうせあとを追いかけてくるだろうと思った。家族だから、帰る家が同じだから、また家でも「お兄ちゃん」なんて話しかけてくるんだろう。そう思っていた。  しかし、妹は帰ってこなかった。「お兄ちゃん」と高い声で呼ばれることは、もう二度となかった。  帰ってきたのは、棺の中で音もなく眠る、傷だらけの妹だった。
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