Mrs.園子の長い夢

「このお肉凄く柔らかいわね。とっても美味しいわ。」

園子夫人は晩餐のメインディッシュである子羊の野菜の煮込み(ナヴァラン・ダニョー)に舌鼓をうった。

ホテルの最上階から見える、見渡す限りの目も眩む様な色鮮やかな夜景は最高級の赤ワインの酔いで滲み、彼女は最高のセッティングの夕食(ディナー)に酔いしれていた。

彼女は夫である史郎博士の細部にまで行き渡ったセッティングの素晴らしさに心底満足していた。

「あぁ、お気に召してくれたなら何よりだよ。君はフレンチが好きだからね。この辺りで一番評判のいい店を選んで正解だったよ。」

史郎博士はさも満足そうな笑みを浮かべると右手に持っていたワイングラスの中身を飲み干した。

「点数を付けるなら何点だい？」

「えぇ……100点だわ。こんな素敵な夕食初めてだわ……」

しかし、園子夫人の心の中では一つ引っ掛かる点があった。

この様なロケーションで食べるフレンチディナーは彼女にとっては初めての体験であったが、何故か彼女はこのセッティングに一抹の既視感を覚えていた。

不思議と何処かで一度見たことがある景色。

それだけに留まらず、この食事のコースの順序、ワインの酔い、肉の焼け具合までの細部という細部が自分自身、実際に一度体験したことがある様なことに思えて仕方なかった。

「ねぇ、貴方。私、貴方と以前も此処でこうやって夕食を食べた事がある気がしてならないのよ。此処での晩餐は初めてな筈なのに……不思議ね。」

史郎博士は眉ひとつ動かさず、逬る様に煌めく夜景を眺めていたが、厳かなまでに整った薄暗い店内に溶け込む私に目をやった。

「デジャヴってやつだよ。全く体験した事の無いことをまるで体験した事がある様に感じてしまう。脳の一種のバグさ。よくある事だよ。まぁ、君が僕以外の男とこの店に来たことがもしあったのなら、それはデジャヴではないがね。」

園子夫人は彼のジョークに吹き出しそうになるのを堪えて、グラスのワインを飲み干すと、再び窓の外に視線を逸らした。

街のシンボルの時計台が午後十一時を指し示し、緑から焼ける様な赤のライトアップに変わるのに目が釘付けになる。

「脳科学の権威の貴方が言うなら間違い無いわね。
ごめんなさい、せっかくのムードを台無しにしてしまって。」

史郎博士はクスリと肩で笑うと、空になった2人のグラスに残りのワインを注ぎながら夫人の横顔を愛おしそうに見つめた。

「何、気にする事はないさ。現に君は僕だけのものだからね。大事なのは今なんだよ。さぁ飲み直そう。今宵はまだたっぷりあるんだから。」

園子夫人は注がれたワイングラスに手を掛けると彼の顔を見つめた。彼に促されるまま無言でグラス同士を軽く当てがう。控えめな2人だけの乾杯の音色が店内に響いた。

「今……。確かにそうかもしれないわね。」

時計台の原色がワインの色彩をより際立たせる中、2人は深い夜闇の幻灯に溶けていった。