茜さす葉桜

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茜さす葉桜

「僕は、貴女に刺されたんだ」  そう声に出して、流れる月日の中で膨らみ続けた想いを告げる。  幾度も心の底に溜め続けた感情が吐息となって溢れ、宵の空気にほどけていく。  八月二十五日、午後七時。  南の空、地平線近くにやって来る蠍は、今日も僕たちを無言で見つめに来るだろう。  彼女の憧れるその星のかがやきを、無力な僕は今日も望む。 「星が回ってる。世界は今日も、美しい宇宙の中で」  ねぇ、ありさ。僕は、思うんだ。  貴女が美しいと思う世界は、貴女の心が映し出す鏡なんだよ。  それはきっと、この空の下で一番美しい。  だから、 「ありさ、僕は貴女のことが好きだ」  ◇ ◇ ◇  僕が彼女、北見ありさに出逢ったのは、春も夕も暮れかけた美術室でのことだった。  それは高校に入学してひと月も経っていない、葉桜の季節だったのを覚えている。  僕は美術の授業での忘れ物を取りに、放課後の美術室を訪れていた。  大して絵も描けないのに、在籍だけはして顔は出さずにいよう、と軽率な気持ちで入部した美術部。  放任主義の先生のもとだからか、部員はほとんど幽霊と化していた。  そんな例に漏れず、放課後の予定は入れずに過ごす予定の僕だったけれど、唯一熱心に出席している彼女のことだけはなんとなく認知していた。  プリントを手に持って数秒、一刻も早く家路につこうと思っていたのに。  彼女の前を通った時、声をかけられたのがすべての始まりだった。  真白のキャンバスに向かって、青藍の世界を描いていた彼女。  なんだか闇夜のような雰囲気を持った人だな、と思った。 「ねぇ、あの。一年生、だよね?」  女子にしては高めの身長、すっきりとした印象のショートヘア。  艶のある髪の毛がさらさらと揺れ、透けて見える向こうの空が綺麗で。  茶色に潤んだ大きい瞳には、気を抜けばすっと吸い込まれてしまいそうな、何かが宿っているように見えた。 「あ、うん」 「よかった」  何が『よかった』なのか全く分からずに微笑を浮かべ、僕は立ち尽くす。  自分以外の部員を見つけたから声をかけてみたくなった、といったところだろうか。  部活に行く気などさらさらないし、そんなことをしたとて無駄だと思うけれど。 「あの、名前は?」  僕が無思慮な考えを持っていることなど知るはずもない彼女は、なめらかな声色でそう告げた。  尋ねられた以上、答えないわけにはいかない。 「西野景」 「私、北見ありさ」  俯きがちに小さく答えると、彼女もすかさず自己紹介に応じた。  丁寧にお辞儀をする彼女に合わせて、僕も一応頭を下げる。 「北と西だね、私たち。二人合わせたら北西だ」  前触れもなくお茶目を言ってくすりと笑い、目を細める彼女。  瞬刻。その場に流れる時が、空気が、止まったような気がした。 「よろしく」 「あ、うん。よろしく、ね」  僕の目の前で花を咲かせるみたいな笑みを浮かべる彼女。  その姿を僕は、どこか違う星の住人を見るかのように眺めていた。 「あ、じゃあ。僕はもう、これで」 「え」  二人の間にしばしの沈黙が流れ、微かに気まずさが漂う。  もうこれ以上、ここにはいたくないと思った。  後で面倒なことにならないよう、何事も慎重に行わなければならない。 「え、じゃあ、連絡先とか」  彼女の顔にかかった長い睫毛の影を見つめながら、心の底でマジかよ、と叫ぶ。  極力人と関わらず、無難に切り抜けることが目標の、僕の高校生活。  その計画が乱されることのないよう、教室でも口を噤んで過ごしていた。  この瞬間彼女と出逢ってしまったことが、後々厄介なことにならないようにしなくてはいけない。  場の流れで交換することになってしまった、LINEのプロフィール画面を確認するや否や、僕は彼女に背を向けて歩き出した。  すっかり暮れた日に目を向け、青褐の空に光る一番星に目をやる。 「ポラリス」  吐き捨てるように呟いて、駅までの道を急ぐ。  人と会話したのが久しぶりだったからだろうか、不規則に跳ねあがる心臓の鼓動を感じる。  幼いころからの人見知りが未だに直らない自分に呆れ、息を吐きながら横断歩道を渡った。  ◇  夜も深まった時間帯、自室の机にて。  課題を終わらせてぼーっとしていると、先ほどの彼女からLINEが届いていることに気付いた。 『よろしく。これから、なんて呼べばいいかな』  スマホを手に取って画面を見つめ、浅く息をついて既読をつける。 『別に、なんでもいいよ』 『じゃあ、景くん』 『わかった』  こういう時にどう返せばよいのか、経験値が乏しいためよく分からない。  心なしか、冷たい文面になってしまった気がするのだけれど。 『景くんは、どんな絵を描くの?』  そんなメッセージを前に静止し、何と返せばよいのかと迷う。 『僕、言えるようなほど絵上手くないし、北見さんに比べたら足元にも及ばないと思うけど』  送信ボタンをタップしてから、すかさず文字を打ち込む。 『強いて言うなら、風景画とか。水彩で空とか描くのは、好きかもしれない』  僅か数秒で既読がつき、『いいね』と返ってきた。  このやり取りはいつまで続くのだろうかと、心底不安になる。 『あとさ。よかったら私のことも、名前で呼んでほしい』  3分くらいの間を開けて、彼女はそう言葉をくれた。 『わかった』  どうして今日会ったばかりなのに、こんなにも関係が進んでいるのだろう。  まだお互いのことを何も知らないのに、下の名前で呼び合うことになるなんて。  彼女にとっては、この距離感が普通なのだろうか。  だとしたら彼女の凄まじいコミュ力に感心するけれど、僕はそれが少し怖くもあった。 『じゃあ、明日の部活楽しみにしてるね』  可愛い絵文字と共に送られてきた、狂気的な文章。 「いや、ちょっと待て」  思わずそう口に出してしまい、椅子から立ち上がりそうになる。  明日もあの教室に行かないと、家にも帰れないなんてそんな……。  放課後くらい自由に過ごさないと、高校生なんてやってられないよ。少なくとも、僕にとっては。  もう一度送られてきたその文章に目を通すが、どうやら僕に拒否権はないようだ。  波風立てない生活を送るためには、冷たくあしらうのが正解だったのだと思う。  それでも人差し指は、心とは裏腹に『うん』の二文字を打ち込んでいた。  僕のメッセージの上に小さく空いた空白と、0:01の文字。  いつの間にか、もう日付が変わっていたらしい。  桜散る空の下で細々と始まった、僕の高校生活。  静かに、時だけが過ぎてくれればいいと思っていたのに。  そういうわけにはいかないのが、現実なんだろう。  夜空の下で微睡みに浸っていると、辺りはもう明るくなっていた。
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