天穹劇場

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天穹劇場

「夏休み、二人でどこか行かない?」  夏の暑さも中盤に差しかかった、七月の終わり。大量の宿題を前に飽き飽きしていた僕のもとに、そんな誘いが舞い込んできた。 「どこがいいかな」 「プラネタリウム、とか」 「いいね。最高」  幾度も星の話を重ねた、僕たちにぴったりだと思った。  八月十日、雨天決行。  突然の嬉しい約束に、空に浮かぶ白雲のように胸が膨らむ。  その日まで、絶対に死ねないな。  呼吸と同時にそんなことを思った自分に驚き、小さく笑みを零す。リアルの充実した高校生みたいな僕を見たら、過去の自分はどう思うのだろうか。  ◇  あれだけ同じ時を過ごしていたのに、休日に彼女と会うのは初めてだった。  改札前、午後三時待ち合わせ。余裕をもって十五分ほど前にやって来たが、その数秒後に姿を現した彼女。待たせてしまったと心配したのか、真面目な彼女は腕時計を何度も確認していた。 「いや、僕が早く来ちゃっただけだから。大丈夫だよ」  彼女は少し頬を赤らめ、目を逸らして頷いた。ふと、彼女の纏っているものに目が吸い寄せられる。ひかえめなレースが施された白いブラウスに、藍色のふわっとしたスカート。意外にも可愛らしい服装の彼女に、なぜだか頬が緩むのが分かった。  あれ、なんだか、この状況には名前があったような。  休日に異性と会うなんて、それもプラネタリウムなんて、  デートじゃん。  思わず言いかけた言葉は飲み込んでとっておくが、それは彼女も同じだったのだと思う。  駅からバスで半時間ほど、市街地から少し離れたところにあるプラネタリウム。星に詳しい彼女だが、意外にも、プラネタリウムには行ったことがないらしい。正確に言うと年長の時の遠足で別の場所に行ったことがあるが、あまり記憶がないのでノーカウントだと言っていた。 「うわぁ、混んでるね……。まぁ、夏休みだしね」 「そうだね、みんなどこ行くんだろ。プールとかかな」  他愛のない会話を繰り返しながらバスに揺られていると、いつの間にか目的地に着いてしまった。  ドームのような形、蔦がかかったお洒落な雰囲気。何だか、季節に置いてきぼりにされたような建物だ。まるで寒さを保ったまま、星空を冷やしておく冷凍庫みたいだった。  中に入ると、冷房のひやっとした空気が汗ばんだ肌を包む。本当に、凍晴の真冬にタイムスリップしてしまったようだ。くすっと笑うと、彼女も隣で同じような反応を見せていた。もしかしてだけれど、彼女も同じことを考えていたのだろうか。  短い受付を終え、案内されるままに劇場の中へ。思ったより空いている建物内に驚きつつ、よく見えそうな場所を吟味して座る。半球型で閉鎖的な、薄暗い空間だった。今から僕たちはここで、肉眼で見るよりも何倍も鮮やかな星を見ることができるのだ。 「なんか、ほんのり良い香りしない?ラベンダー、かな」  その言葉に目を瞑り、嗅覚を研ぎ澄ます。彼女の言ったように、確かに辺りは良い匂いで満たされていた。 「あ、そうかも。アロマかな」 「あ、それだ!リラックス効果があるからかぁ、素敵だね」  彼女の横顔を横目に深く頷く。数分間の空白が、ゆったりとその場に残った。 「あ、始まるよ」  うっすらとついていた照明が全て落とされ、辺りが途端真っ暗になる。いよいよ、待ちに待った空の旅が始まる。光の失われた室内に、余計に胸が高鳴った。 「私たちの住む地球は、壮大な宇宙の中に佇む、ひとつの小さい星に過ぎません」  落ち着いた女性の声色が、暗闇の建物中に響き渡る。世界の神秘に触れるプラネタリウムに、まさにぴったりのアナウンスだ。 「どんな時でも、それが例え晴れた昼の日だったとしても、美しい星空は頭上に広がっています。見えなくたって曇っていたって、いつでもそこには星があるのです。数多の謎に包まれた宇宙、そして星空の魅せる神秘。誕生してから何千年の時が経った今でも、私たち人類は、見上げた先の空間について、いくつもの想像を巡らせてきました」  突如、壮大な宇宙が凄まじい速度で目の前に広がる。 「うわぁ……」  隣の彼女から、小さな吐息が聞こえる。鼻先をくすぐる花の香りが混ざり合って、本当に星空の中にいるような感覚だった。 「これが今日、八月十日二十時の夜空です。では早速、星座探しを行っていきましょう。ほぼ真上の空に、夏の大三角形がありますね。ベガ、アルタイル、デネブからなる夏の大三角は、天の川と並ぶ夏の風物詩であり、夜空の中でもひときわ強い輝きを放つ恒星で形づくられています」  その後、三つの一等星について詳しい説明がなされる。星々にまつわる神話、どれもが非常に興味深いものだった。ふいに、幼い頃の七夕の季節、幼稚園でベガの話を聞いた記憶が蘇る。 「では、夏の第三角形より下、南の夜空を見てみましょう。赤く光る、大きな星がありますね。これがアンタレス、蠍座を象徴する恒星です」  瞬く間に星と星が線で繋がっていき、出来上がった蠍の形が頭上に映し出される。神話の説明を聞きながら蠍を眺めるも、つい目が吸い寄せられてしまうのは、尻尾に位置する二等星。鋭い針、シャウラだ。彼女の絵の中で溺れながらも、空を割る勢いで躍動するあの蠍の針。残念ながらシャウラについての説明はなかったが、あまり知られていない星なので仕方がないと思い直す。シャウラは、僕が彼女に教えてもらった最初の星だ。次の解説を聴きながら、言えない優越感に浸った。  その後も、夜空の星座について説明がなされていく。頭上に広がる星ひとつひとつを結びつけて星座を作っていくなんて、古代の人たちはなんて想像力が豊かなのだろう。遥か昔に生きる人々の、無限の想像力に思いを巡らせた。それでも、「かみのけ座」「からす座」なんかは、何をどうやったら髪の毛やカラスに見えるのだろう、と思ってしまうけれど……。  宇宙の旅も終盤にさしかかり、美しい音楽と共に、何十倍もの速さで星が巡りはじめた。  痛感するのは、今ここに生きている僕らの無力さだ。僕は宇宙の一部で、彼女も世界も宇宙の一部。全ては、壮大な宇宙の中にある―――。 「綺麗」  彼女が唇を動かして、小さく呟く。僕の身体は、宇宙の最果てまで飛ばされてしまったような気がした。 ◇  あまりに幻想的な時間にも遂にはさよならを告げ、意識が空ろなまま外に放り出される。生ぬるい暑さが頬を撫で、一気に現実に引き戻されてしまった。寂しさの拭えないままバスに乗り込み、近くで一番大きなターミナル駅へ。ぽつり、ぽつりと言葉を交わしながら、改札までの道を歩んだ。 「あ、ピアノ」  耳元で響いた彼女の声。ハッとして耳を澄ますと、僕たちが進む先、通路の向こうから、繊細な旋律が聴こえてきた。そう言えば、この駅にはストリートピアノがあったはずだ。近くまで行ってみると、そこには小さいながらも人だかりができていた。その中心にいるのは、大学生くらいの男の人だ。多くの人が通っていく空間で、あんなにも堂々と演奏できるなんて尊敬してしまう。 「綺麗だね」 「うん」  最後の一音が鳴り止み、一瞬静寂が訪れる。次の瞬間、楽譜をひらりとめくった彼は嫋やかに、黒鍵に指を触れた。美しい旋律が、その場に流れ出す。 「あ、ジュピター」  ホルスト、組曲 「惑星」より 木星————。  クラシックに疎い僕にも分かる、ついうっとりしてしまうほどに優しいメロディ。 「うわぁ、余韻に浸れる選曲だ」 「うん、素敵」  しばらくそこで立ち尽くしていると、さっきまでのプラネタリウムで味わった、あの感動が蘇ってきた。全ては壮大な宇宙の一部という、希望とも絶望ともとれるような事実と一緒に。 「ねぇ、私もピアノ弾きたい」  彼女の言葉に驚いて、空気が小さく揺れた。 「え、弾けるの?」 「えー、弾けるわけないじゃん。弾きたいな、ってだけ。私、美術以外何もできないから。音感、欲しかったなぁ」 「あぁ、それは僕も」  どんなことにも秀でた天才肌の彼女だが、流石にピアノまでは弾けないらしい。僕は生粋の音痴なので、偉そうなことは言えないけれど。 「ねぇ、あのさ。星座って、八十八個あるんだよね。今の、正式なものだと」 「え、うん」  続く言葉を予測できず、僕は流れてくる音符に浸った。 「ピアノの白鍵も、全部で八十八個なんだよ。これって何か関係あるのかな」  彼女が美しい視点を持っているからこそ、生まれた疑問だと思った。確かに、どちらも八十八だ。八十ハ個の星座と、八十ハ鍵の音色。 「あってもなくても、素敵な繋がりだね」 「そうだね」  その繋がりが偶然なのか、そうでないかは僕には分からない。それでもこの世界には僕たちには触れようもない何かが秘められているのだと、確かにそう思った。  
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