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確かに星を
「ねぇ、見て。夜空が泣いてる」
「え?」
あたりに浮遊する絵の具の匂いに浸っていると、耳元にそんな声が届いた。
夜空が、泣いてる?
「描かなきゃ。今この瞬間の、美しい空の色を」
宇宙からの使命を全うするかのように、彼女は決意を口にした。
「え、でも」
「今じゃなきゃ、描けない何かがある。何の確証もなしに、そう、強く思うことが、時々あるの」
「もう、最終下校時刻は過ぎてるけど」
「そんなのどうでもいい。あの絵を、シャウラの絵を、今ここで完成させなきゃ」
彼女はいつにもなく強い口調で、言葉を必死に繋ぎ合わせる。普段から生き急いでいるように見える彼女の、芯の部分が剥き出しになった感じだった。
「何か。何かがあるの。今じゃなきゃ、いけない理由が」
その意思を変えることなど、僕には到底不可能だろう。
それでも、拭えない不安があるけれど……。
「もういくらなんでも遅いし、警備員さんとかが、見回りにくるんじゃないかな」
「じゃあ見つかったら見つかったで、その時は。よろしくね、景くん」
悪戯っぽい笑みを浮かべた彼女はその途端、僕の視界から消えていた。
慌てて、キャンバスの置いてある方に目を向ける。
「え、」
僕は、言葉ひとつ零すこともできなかった。その代わりに、彼女の凛とした横顔を見つめる。
その瞳はもう、夜空のきらめきを捉えていたから。
◇
「ん、終わった!」
晴れやかな笑みを広げ、こちらを振り向く彼女。
スカートの裾が広がって揺れると同時に、僕の脆い心も壊れそうになった。
「おめでとう!」
空を眺めるだけの部活を一旦中止し、彼女のもとに駆けて行く。ふと腕時計に目を落とすと、針は十時を過ぎたあたりを指していた。美術室は職員室がある棟から一番遠い場所にあるため、わざわざこんなところまで見回りには来ないのかもしれない。
彼女とのこの時間を壊されるのではないかと恐れていたため、安堵を覚えて息を吐く。ついさっき教室の電気を消したけれど、星の明るさと携帯のライトがあれば、意外とやり過ごせるのだということが分かった。
今なら生身の僕のまま、宇宙の果てまで行けるような気がした。
ずっと、ずっと待っていたあの絵の完成を、数秒後に見られるのだと、鼓動が速くなるのが分かる。あの日初めて会った時には薄っすらと青が塗られていただけだった、その大きなキャンバス。
彼女の目に映る世界と、
地球の美しさを縫い合わせたように描かれたそれが、
瞳に映って、
この胸に込み上げる感情を、
感動なんて陳腐な言葉じゃ形容することもできないのだから、
この世に蔓延るどんな愛の謳い文句を借りたって、到底伝えきれないのだから、
あぁ、僕は、やっぱり、
そう思った、刹那。
何度も僕らが見上げたその窓の外、
きらめく夜空で何かが光って落ちたような、そんな気がした。
「ねぇ、ありさ」
僕にとっての、シャウラはさ。
他でもない、ありさだったんだよ。
貴女の針が、僕を刺した。
抜けないくらいに深く、青い跡を残して。
貴女の青が僕を満たして、そうやって今日もまた。
夜空を見つめる彼女の背中に、目映い光を見つけたから。
「僕は、貴女に刺されたんだ」
彼女は一瞬戸惑いの色を見せたが、僕の言葉の意味を理解したのか、とびきりの微笑みを贈ってくれた。
「僕にとって、貴女は恒星だった」
「私、恒星なんかじゃないよ」
彼女は僕の心からの言葉を、嬉しそうに首を振って否定した。この胸の奥で舞う、彼女からもらった大きな光がどれだけ大きかったか、伝えなければならないのに。
「光ってたんだ、何よりも強く。僕にとってのきらめきは、全部貴女からもらったものだった」
少し照れたような素振りを見せ、彼女は微笑んだ。
「ありがとう。でもさ」
「知ってた?私だってきらめきを、景くんにもらってたんだ。そのエネルギーと命を、全部絵に注ぎ込んでた」
「……っ」
思ってもいなかった突然の言葉に、沈黙を通してでしか応えることができない。夜の空気が優しく流れていき、荒れっぱなしの心の波を、少しずつ和らげていく。
あまりに身に余る言葉だと思った。
そんな小説の中の主人公みたいな台詞を、僕が受け取るなんて。
でも、こんな僕だからこそ、
その二文字くらいは、いつか伝えなければと、
ずっとずっと、そう思ってきたから。
「星が回ってるよ。世界は今日も、美しい宇宙の中で」
彼女に出逢って言葉を交わすようになってから、いくつの「美しい」を耳にしたか分からない。
それほどまでに、その五文字は彼女の中の大部分を占めていたのだろう。
でも、ふと、最近、僕は思う。
そんなにも夜空を、かがやく星を美しいと思えるのは、貴女の心が美しいからなんじゃないかって。
ありさの言う美しい夜は、美しい世界は、貴女の心を映し出す鏡だ。
だから、
「ありさ、僕は貴女のことが好きだ」
貴女のことが好き。
はるか彼方、かがやく星のように美しい貴女のことが。
そう、はっきりと口に出してしまったからにはもう、後戻りはできない。
どんな言葉が返ってくるのだろう、と身構えていると、彼女はくすりと笑って首を傾げた。
驚きの表情ひとつ見せない彼女に、緊張していた僕は拍子抜けしてしまった。
「そんなの、知ってるよ」
分かりきったような口ぶりで、当たり前のようにそう言う。
「私、ずっと君のこと見てた。初めて星について語った、あの時からずっと」
凪いだ空気の中、僕の心臓だけが弾み続けていた。
「そう、なの?」
驚愕が音の振動となり、彼女の笑みが一層やわらかくなる。
「私、大好きだよ。景くんのこと」
そう言って、包み込むような微笑みを浮かべるありさ。
瞳が潤んで、水が溢れた。
今なら、今というこの瞬間の全てを、愛せると思った。
流れるこの時を切り取って、決して褪せない想い出に。
人との関わりを避けてばかりいた僕が変わったのも、星の美しさを知ったのも、人の温かさを教えてくれたのも、全部全部、貴女の所為だ。
「本当に、星のような人だと思ったんだ。今思えば私たち、本当に星の話ばかりしてたよね。絵を描いている時も好きだったけど、それ以上に、この時間が好きだったの」
「そうだね、僕たちはいつも星の話をしてた。いつだって夜空の向こうにある何かを、探していたよね」
手招きをして、ありさの身体を自分の方に引き寄せる。いい匂いにくすぐられながら何度か言葉を交わし、強く抱きしめた。
底抜けの幸福感で、身体中に流れる鮮血が、いっぺんに爆ぜてしまうような気さえした。藍の空から浴びる夏夜の酸素に、感情やら何やらが混ざり合って、ぬるくなって溶けていく。
僕らは、確かにここに生きているのだと、そう、強く思った。
「 」
あまりに自然な経緯で、ふたつの唇が重なった。そのやわらかい感触と、星のきらめきをいっぺんに感じる。
その心地良さから僅かに距離をおいた瞬間、閃光のような何かが瞬いたのが分かった。
「あ、流れ星」
「彗星じゃないかな、随分大きい光だよ。うわぁ、綺麗」
「これが世界の終わりになるかもよ」
もしかして、と付け足し、笑いながらそう口にする。
「噓でしょ、何言ってるの」
かつての夜は大真面目にあんな話をしていたくせ、こちらから話題を振るとつれない彼女。そんなところもまた、憎めなくて可愛らしいと思った。
「あはは。でもさ、もう。たとえ終わっても、大丈夫だよね、僕たち」
「もう、やめてよ」
永遠を何の疑いもなく信じられるくらいに、僕たちは満たされていた。星のかがやきがそれについてくれば、もう何も怖くない。変わらぬ愛を夢想できるほどには、幸せだったんだ。
「でも、そうだね。うん」
彼女の言葉を反芻し、抱えきれないほどの大きさの喜びを噛み締めた。
彗星の尾が引かれ、夜空を撫でるように駆けていく。それが肉眼で確認できるほど近くに迫り、瞳に沁みる光を見た。始めて彼女に出会ったその瞬間のような、圧倒的な何かを秘めた灯り。
「綺麗」
ん、と頷いた刹那、轟音と共に美しい青が眼前に広がった。
凄まじい速度であたりに飛び散っていく粒子を、驚きもせず眺めていた。地響きを立てながら、燃えるような美しさを見せる星屑に、どうしてだか胸が強く高鳴る。夢のように幻想的な光景、彼女の描く青の中にいるような感覚。はるか遠く、レンズに映る世界がかがやいて見えた。
あまりの光景に放心しつつ、触れた肌から伝わってくる彼女の温もりに身を寄せて、瞬きをひとつ。
僕ら、青に包まれた地球の上で、この世界の上で。
確かに星を、見ていたんだ。
「ねぇ、景くん。世界はやっぱり、美しかったみたいだね」
僕ら、青く愛の星の上で、
とこしえの温もりを、信じていた。
Fin.
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