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7.笑って
「亜美さん、どうかしましたか?」
「何も?」
彼女は普段と全く変わらない横顔で、ぐいっとコーヒーをあおる。
でも、その目は確かに腫れていた。
彼女らしくない厚ぼったい瞼を見ていたら、言わずにいられなくなってしまった。
「ひろみちゃんに彼氏ができました」
「なにそれ、ちょっと」
亜美さんが缶から唇を離す。文句を言いかけた彼女を僕は目で制止する。
「でも俺はホームランを打ちます」
鼓動がうるさい。黙れ! と僕は心臓を叱咤する。
「本当はわかってたんだ。打ちたいのはひろみちゃんのためじゃないって。亜美さんに褒められたかっただけだって」
亜美さんが目を見開く。その彼女に向かい、僕はぺこりと頭を下げた。
「絶対打つから。見てて、亜美さん」
亜美さんはなにも言わなかったけれど、僕は構わずにボックスへ入り、コインを機械に呑み込ませた。
がこん、とアームが動き出す。
──マシン見て。
打ち方を教えてくれた彼女の声が、僕の中で光をまとって響く。
──タイミング。
アームが上がっていく。射出口からボールが顔を覗かせる直前。
今、という声が聞こえた気がした。思い切りよく腕を振ると吸い寄せられるようにバットは滑っていき、カキン、と甲高いを音を立ててボールを跳ね返した。
飛ぶ。飛ぶ。
飛距離が、伸びていく。
黒く沈む空を切り裂く白い彗星みたいに駆けたボールはしかし、目標点よりわずかに右に逸れていく。
駄目か、とうなだれたときだった。
「ホームラン!」
いつだったか耳にした機械音声が高らかに叫んだ。おおお、と歓声が湧き起こる。
意味がわからず見回すと、僕の左隣のボックスにいた高校生がこちらに親指を立てていた。
「感謝しろよ、俺の打ったやつがお前の球の軌道、変えてやったんだから」
「えらそうに。たまたまじゃーん」
彼の友人がネットの向こうで騒ぐ。その彼らを見ていて思い出した。以前、横入りしてきたやつらだ。けれど彼らは、あのときとは違う顔で笑っていた。僕を称えるように彼らは、あいつすごいよ、すごいよ、と繰り返してはしゃいでいる。
そして。
「将くん」
ボックスから出てきた僕を迎えてくれたのは、カバキチを抱えた亜美さんだった。
どうぞ、と渡されたカバキチを受け取る。ふかふかの体をぎゅっと抱きしめてから、僕はそれを亜美さんへ差し出した。
このホームランは僕だけの力で打てたものじゃない。
でも僕は、彼女にどうしても今、言わなきゃいけないことがある。
力をくれ! カバキチ!
「亜美さん、好きです」
亜美さんが動きを止めた。
「今度は自分だけの力でホームラン打つので。打てたら付き合ってください!」
お願いです。いいよと言ってください。
だが、答えを待つ僕の視界に飛び込んてきたのは、彼女によって押し戻されたカバキチの残念ボディだった。
「生意気言うな。中学生」
……そりゃあ、そうか。
わかってはいた。わかってはいてもなかなかこたえる。
うなだれた僕の耳に、ただ、と呟く声が不意に滑り込んできた。
「努力できる男は嫌いじゃないよ」
息が、止まる。
体の芯から湧き上がってくる熱に押されるようにして、気がつくと僕は勢いよく顔を上げていた。
僕の腕の中、カバキチの首に結ばれた「ホームラン、おめでとう! 広海バッティングセンター」と書かれたプレートが恥ずかしそうに揺れていた。
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