episode.1

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「――……お母、さん」  ずっと忘れていた。  どうして忘れていたのだろう。  病気がちだった母親は、まだ幼い奏を残して呆気なく旅立った。  穏やかに眠る母親の顔に白い布がかけられると、ずっとやまなかった雨があっさりと上がった。代わりに病院の中庭に見事な虹がかかった。 「お母さん……!」  あの日、泣きじゃくりながら見上げた虹と同じぐらい大きな虹が、目の前にあった。あれから何度も雨上がりの虹は見たけれど、これほど立派な虹はあの時以来だ。  奏は金網に足をかけて、フェンスから更に身を乗り出した。 「お母さん、そこにいるんでしょ? ねえ、会いたいの!」  脇腹が()りそうになる。金網にかけた足が震えながら体重を支えている。 ――虹の中には小さな国があってね、そこではみんなとっても幸せに暮らしているの。  十五歳、もう子どもじゃない。母親の残した言葉が、奏を安心させるためについた嘘だってことぐらい分かっている。  でも、どうしても今だけは、その言葉を信じたかった。  どうしても今だけは、母親の声が聞きたかった。奏の言葉を聞いて欲しかった。  もう、写真に写った余所行きの微笑みしか思い出せないけれど。  それでも、今だけは――  虹の表面を掴もうと必死に手を伸ばしていると、背後で勢いよくドアが開く音がした。 「何やってんだよ、奏!」  実広が昇降口から追い駆けてきたらしい。元より体力が無い実広は、さっきの奏よりゼーハー言いながら、その隙間に怒鳴ってきた。 「危ないだろ! 早く降りろ!」  振り向くつもりはなかった。その声から逃げるように、腰までフェンスを超える。  あともう少し。あともう少しなんだ。  指先が幻のように揺らめく虹に触れた瞬間、ぐらり、と奏は体勢を崩した。 「あ、おい、馬鹿……っ!」  セーラー服の襟を後ろから掴まれて首が締まる。だが一瞬感じた抵抗も虚しく、そのまま重力に逆らえずに落下する感覚が全身を覆った。 ――あ、終わった。  目の前が真っ暗になった。
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