1.

1/1
前へ
/3ページ
次へ

1.

 (たける)は雨上がりが嫌いだった。  あの蒸し蒸しとした暑さ。雨水に濡れた草木や土の匂い。  それまで静かにしていた人々や車の流れが一斉に動き出す、あの喧噪。  カエルやセミの鳴き声。  そして、道のあちらこちらにできる、水たまりやぐちゃぐちゃにぬかるんだ泥道。  それらすべてが不快だった。  雨上がりに比べれば、雨が降っている時のほうがはるかに好きだった。  雨が降っている時の独特の静けさや、雨水に全てが流されていくあの清涼感は心地よかった。  健は営業の帰り道、田舎の道を歩きながら、地面のあちらこちらにできた水たまりに顔をしかめた。   「くそっ。これだから雨上がりの田舎は嫌なんだ」  必然的に水たまりを避けるように、蛇行しながら歩くことになる。それでもズボンの裾に泥がついた。  両端を田んぼと民家に囲まれた一本道だが、その歩き方のせいで、時間がかかる。  もっとも、ここを抜ければすぐ、健の所属する営業所がある。  あくまでも田舎道といえるのはここだけで、それ以外は比較的都会的な町の造りだった。  この辺りだけが、開発が進んでいないのだった。  健は業務用ミシンの営業の仕事をしていた。  営業の成績はまずまずだったし、今日の首尾も上々だったが、この蒸し蒸しする空気のなか、水たまりを避けて時間をかけながら営業所まで戻るのは、一歩ごとに苦痛が増す感覚だった。  ふいに子供の声が健の耳に入った。  顔を上げて見ると、目の前の水たまりの一つを、ランドセルを背負った小学校低学年と思しき少年、少女が二人、囲んで座っている。  どうやら水たまりの中に何かいるらしく、面白そうに話す声が聞こえる。 「ねえ、見てよ、これ」 「ホントだ! 魚だよ」  健は首をかしげた。 「魚だと?」  あいつ等、何を言ってるんだ?  池じゃなくて、ただの水たまりだ。メダカだっているわけがない。  健は近づいた。  近づく音が聞こえたのか、二人が同時に顔を上げ、建を見る。  まるで、健を待っていたかのように、二人揃って白い歯を見せてニッコリとを笑った。  髪型や服装が違う以外は、とても良く似た笑顔だった。 「何かいるのか?」  健の問いに少年が水たまりを指差した。 「見ててごらん。魚がいるんだ」 「魚?」  健は水たまりに目をこらした。幅1mもない水たまりだった。深さもおそらく20cmもないだろう。  雨上がりに田舎の凸凹道にできる、典型的な水たまりだった。  泥水で水面は濁っている。  何もいない。  いるはずがないのだ。  と思った瞬間、水面が少し盛り上がった。 「な!?」  二人がクスクスと笑う。 「だから、言ったじゃん!」  馬鹿な?  二人の笑い声には構わず、健は膝をついて水たまりに顔を近づけた。  またしても、ぬめりという音が聞こえそうなほど、水面が盛り上がり、その盛り上がりがスライドするように動いた。 「そんな!?」  水面の盛り上がりは2〜3cmはある。  この小さな水たまりに鯉でもいるというのか? 「何がいると思う?」  いつの間にか、二人は立ち上がっていた。 「分からない」    健は水面から目を外さず、答えた。 「でも今の水面の盛り上がりは、ただのさざ波じゃない。風は吹いてないし、あの盛り上がり方は何かいるんだ」 「水に手を入れてみたら?」  少女が言った。   「え?」  健は少女を見上げたが、その顔は笑ってはいなかった。  冷たい目だった。  健をじっと見下していた。  健が答えるまでは、じっと黙っているつもりのようだった。 「いや、でも……」  健は水面に目をやった。  もし本当に水たまりの中に何かいるとしたら、手を入れるのは危険ではないだろうか?  健は迷った。  二人の少年、少女は黙ったままである。  辺りはいつの間にか静かになっていた。  健は次第に二人のことが気になりだした。    今、少女がみせた冷たい目つき。  あれが小学生のする目つきだろうか?  この二人、何かおかしいのではないか?  いったい何者なのだ?  いつの間にか、雨上がりの、あの喧騒は健の耳に聞こえなくなっていた。  蒸し蒸しとした暑さも感じない。  それどころか、背中にゾクリとする寒気を感じていた。  健は自分の頭より高い位置にある、二人の表情が気になってしょうがなかった。  今、二人はどんな顔をしているのか?  だが健は顔を上げて、もう一度二人を見るのが怖かった。  だが水たまりの中にいる、何かから目を離すのも怖かった。  どうすれば……  
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加