雨上がりの泥濘

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そうなのである。私は二十歳そこそこの交番巡査に呼び捨てにされるような男だ。人生の階段をどこかで踏み外した四十四歳無職の駄目なやつ。まるで駄目男(ダメオ)なのである。 「咲田、おまえ、よくもまあ恥ずかしげもなく外を歩けるよな」 「余計なお世話だ」 腹が減りすぎて声に力が入らない。 「ずいぶんやつれてるから、ぜんぜんわからなかった。どう見ても不審者だぞ。もっとしゃんとしろよ」 「職質やるなら、ちゃっちゃと済ませろ」 「馬鹿馬鹿しい」 「勝手に始めるぞ。名前は咲田。年齢四十四歳。無職。毎日が休日だよ馬鹿野郎。行き先は消費者金融。以上、終わり。わかったか」 「わかったも何も、はじめから知ってる。おまえは県警の有名人だからな」 「用が済んだんなら、どこか行けよ」 「そのようすじゃあ、満足に飯も食えてねえんだろう」 図星すぎて頭に血がのぼる。だが辛抱が肝心だ。だから何もせずに嵐が過ぎ去るのを待つ。ただひたすら、雨が上がるのを待つ。いや本当はといえば天気は快晴で雨などぜんぜん降ってもいないのだが、比喩として私は雨上がりを待つ。 「俺がおまえなら、国外に飛ぶね。いや、樹海で死ぬよ。とても生きてられないね」 「だったら今ここで死んでみろ!」 立ち上がる。手が出そうになるが、寸前で思い止まった。 「なんだやるのか、咲田。なあ、おまえいい度胸してんな。公務執行妨害いくか」 口先だけだ。公務執行妨害で私を現行犯逮捕しようものなら、山のような報告書類の作成に忙殺されることを柳原は百も承知している。ひまわりさんなどと揶揄されがちな交番のお巡りさんだが、その実態は激務だ。公務執行妨害の現行犯逮捕に関する書類作成に費やすような無駄な時間などない。実際のところ、公務執行妨害の報告書を必死こいて書くようなお巡りにはろくな者がいない。(私もろくな者ではないが、公妨マニアの警官は、私のようなろくでなしとは少し種類が違う)目の前の柳原巡査は少なくとも公妨の報告書をせっせこせっせこ作成するような頭のネジが外れかかったヤバいお巡りではない。だから言葉とは裏腹に、柳原は手錠を取り出そうともしない。 「逮捕するのか? 公務執行妨害で。だったら逮捕しろよ。その代わり、おまえが自腹切って俺のカツ丼を用意しろよ」 洒落だ。実際の取調室にカツ丼が出てくることはない。フィクションのロマンというやつだ。 「もういい。咲田、もしも何かやらかしたら、ただじゃおかないからな」 柳原巡査は私の足下に唾を吐く真似をしてから、威圧的にのし歩いて立ち去っていった。
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