ダイヤグラム

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 *  おれの家の最寄駅は路線で一番端にあるから、基本的に必ず席に座ることができる。乗る時間によっては叶わないこともあるが、その時間では学校の最寄駅に着いた瞬間クラウチングスタートを決めないと、朝のホームルームに間に合うバスには乗れない。だからいつも早めの時間の電車に乗っている。最初の理由はそれだけだった。  六両編成の進行方向、先頭車両。二人掛けのシートが左右に並ぶ車内の、右側、前から三列目の窓側。別に座席が指定されているわけではないが、いつもおれはその席に座る。始発駅を出る段階では空席のほうが目立つこの車内も、おれが降りる駅に着く頃にはほぼすべての席が埋まる。もちろん降りるとき、おれは通路側へ座る人に足を引っ込めてもらって降りなくてはならないから、窓側に座るのが面倒なのは事実。  それでもおれは、この窓側の席を絶対に譲れない。もっと言えば、窓側は窓側でも、この車両の右側の、三列目の窓側でなくてはいけない。  ゆっくりと電車が動き出すのを合図に、リュックサックから英単語帳を取り出す。いっぺん雨に濡らしてからはパリパリになってしまったが、そんな理由で新しいものを買う金など親はくれないし、いまさら書き込みをもう一度転記するのが面倒で、結局そのまま使っている。  目で単語を追ってはいても、半分くらいは窓の外を過ぎ去っていく景色にひっかかって遠く離れてゆく。気が気ではない。英語どころでもない。交わしたい言葉はあっても、きっと叶うことがない。  電車は三駅ほどを過ぎて、ついに四駅目のホームに滑り込む。もはや単語帳は読んでいたページに指を挟んでいるだけで、目に入ってはいない。おれの視線は窓の外に向いていた。たまにおれのほうが早いこともあるし、その逆もある。一番最悪なのは、ダイヤに遅れが出ることによって、視線の先に映るのがホームで大あくびをしているサラリーマンのおっさん軍団だけ……という日だった。  今日は、はたして――。  そう思った瞬間、銀色のアルミニウムの車体が、左から右へ過ぎ去ってゆく。テレビで流れていた、オリンピック開催地が東京に決まった瞬間の歓喜の様子が脳裏をよぎる。  速度がゆっくりと落ちてゆき、最終的には隣の電車に乗っている人の顔がはっきり判別できるようになって、ブレーキの高い音とともに停車する。ちょうどすぐ隣にきた窓の奥にいる人物のすがたを、おれは気づかれないようにちらりと眺めた。  この電車に乗ると、ダイヤ通りであれば必ずこの駅で対向列車とすれ違う。  一分未満だけれど、おれが来た方向へゆく電車の中の様子がはっきりと見える。  そしておれはある日、この座席に座ると、すれ違う電車でいつもちょうどおれと反対側の場所に座っている存在がいることに気づいた。  彼女が身にまとっているのは、おれの家の近所にある進学校の制服だった。おれはその学校の受験に落ちたせいで電車通学を強いられているから、余計に印象に残ったのかもしれない。  彼女の長い黒髪は、車内の照明で天使の輪をつくっている。本を持つ手はおれよりひと回り以上小さく見える。たいていは参考書を目で追っているが、たまにスマホを触っていることもあった。うたた寝している姿は一度しか見たことがない。  全体的に丸みのある、所謂たぬき顔の彼女は、おれの好みのど真ん中。  早い話が、おれは彼女に一目惚れをしたのだった。
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